西部戦線の英軍重砲
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カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

第一次世界大戦の参考図書・資料

第一次世界大戦後の
日本の陸海軍 A 陸軍各論

航行中の英艦隊
英軍の戦車
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カイゼン視点から見る日清戦争


第一次世界大戦後の日本の陸海軍 A 陸軍各論

第一次世界大戦後の軍縮期の日本の陸海軍に関するもので、大戦研究や国防方針など、特定の主題について記述しているもののうち、陸軍関係についてです。


葛原和三 「帝国陸軍の第一次世界大戦史研究
− 戦史研究の用兵思想への反映について」
(防衛省防衛研究所 『戦史研究年報』 第4号 2001年)

著者は、陸上自衛隊幹部学校戦史教官です。本論文では、旧陸軍が「近代戦に適応できなかった要因はいつどのように形成されたものなのか」という問題意識から、陸軍による第一次世界大戦史の研究の内容と、その成果の用兵思想への反映のされ方が追及されています。

第一次大戦史研究では、陸軍内で、「産業上の一等国民は、同時に戦場に於ける最強国軍」という報告がなされ、「挙国一致をもって産業、特に運輸交通技術の発達を助長促進し、軍部自らも亦軍事工芸技術の進歩改善」を提唱する意見書が出されていたこと、などが明らかにされています。

しかし歩兵操典の問題となると、戦場の実相の観察に対し、「兵器材料等の精度、員数において非常に懸隔ある現状において、直ちに彼の採りたる形式に倣わんとするは大なる誤謬」、あるいは、改革派の意見は「精神的要素の軽視、敗戦主義と称され、物力に偏した考え方であり、軍の士気を低下させる」などの反発を生じたことが指摘されています。

そして、「欧州戦を最終的には『特異な現象』と見なし、機械力に依存することを戒め」る総括となっていったこと、また参謀本部での戦史研究では東方戦場のロシアに対する独軍の教訓を主としており、「ロシア軍=素質劣等軍であるという固定観念」のもとに、「敵は慣用戦法に陥り、我が乗じ得る過失を犯すという解しがたい理論が展開されている」、と指摘されています。

用兵思想への反映に関しては、陸軍省(臨時軍事調査委員)は、近代戦は長期戦となることを認識し、装備優良軍を対象に軍備を強化しようとした、それに対し参謀本部は、軍備の強化に重工業振興の必要を認めた上で、前提として資源の確保が先決と認識し、大陸への権益拡大の機会を窺い、初度動員兵力の確保を優先しようとした、陸軍は戦史研究によって近代化の必要性を認識することはできたが、用兵思想への反映において政策的観点を介在することにより将来戦の様相とは異なる方向性を指向するに至った、と指摘しています。

読む価値が高い論文であると思います。本ウェブサイトでは、「日本が学ばなかった大戦の教訓 @ 戦争するより非戦争で工業化」、および「同 A 兵員数より最新兵器」のページで、本論文からの要約引用を行っています。


前原透 『日本陸軍用兵思想史
−日本陸軍における「攻防」の理論と教義』 天狼書店 1994

前原透 日本陸軍用兵思想史 表紙

著者は陸軍士官学校卒、陸上自衛隊で幹部学校戦史教官、防衛研究所所員などの経歴を持つ戦史・軍事史研究家です。

本書執筆の背景には、「昭和の日本陸軍では、攻勢、攻撃以外全く考えられない状態に硬直してしまった」、「日本軍は太平洋戦争の各正面では果敢な攻勢・攻撃を見せてはいたが、戦後、戦史を検討すると、空しかった攻勢、実効のない攻勢、掛け声だけの攻勢、攻勢の条件のないところでの攻勢・攻撃などが、戦争後半期の各戦線で特に目立つ」、日本陸軍の攻勢主義が「最終的には破綻を招来してしまった」、という著者の認識があります。

そして、「『用兵(戦略戦術・統帥指揮)思想』として『攻防』が陸軍内部でどのように論じられていたか」、「『攻勢・攻撃主義』はいつからどのように発展し定着したのか」を明らかにすることが本書の目的とされています(以上、「はじめに」)。

このため、本書の本論では、明治の初めの日本陸軍の創設から昭和期までの、軍内の兵書、論文、歩兵操典、統帥綱領、作戦要務令などでの「攻防」の理論に関する記述が、時系列に沿って詳しく確認されています。当然ながら、第一次世界大戦期の日本陸軍内の「攻防」理論の論争とその公式化についても、記述されています。

本書は読む価値が大いにあります。本ウェブサイトでは、「日本が学ばなかった大戦の教訓 A 兵員数より最新兵器」のページで、本書からの要約引用を行っています。


黒沢文貴 『大戦間期の日本陸軍』 みすず書房 2000

本書は、著者が1982〜1996年に発表した論文で構成されています。内容は、第I部 「第一次世界大戦の衝撃と日本陸軍」、第II部 「『満州事変への道』と日本陸軍」、第III部 「『太平洋戦争への道』と日本陸軍」となっています。

本書の主題は、「大正デモクラシー期」の陸軍から「昭和ファシズム期」の陸軍への変質過程であり、それを4つの視角、すなわち、@第一次世界大戦の及ぼした衝撃を重視し、「第二の開国」と位置付ける、Aとくに総力戦の衝撃の意味を重視する、B「大正デモクラシー」と陸軍の関係性に注目する、C近代化途上国の軍として陸軍を理解する、の4点から分析する、としています(「序章」)。

「第一次世界大戦の衝撃」は、「黒船」並みとは言えぬものの、相当な大きさであったことには筆者も大いに同感します。また、著者が、本論を、日本陸軍の第一次世界大戦の研究調査体制の詳述から始めている点も、誠に適切と思います。

ところが、時の陸軍による研究の具体的な中身がほぼ全く論じられていません。この点は、上掲の葛原論文や前原著書とは大きく異なっています。すなわち、「黒船」の中身である「第一次世界大戦の衝撃」の具体的な内容や、日本陸軍によるその衝撃的変化の認識の程度についての確認作業が欠けてしまっています。にもかかわらす、著者は分析の次の視角を、「とくに総力戦の衝撃」と設定しています。

実際の第一次世界大戦の衝撃からすれば、大戦後の日本陸軍は、最優先課題=最新兵器への更新、中長期の重要課題=工業化水準の引上げ、とするのが最も適切であったと思われるのに、陸軍はそうしなかった、それはなぜか、その結果何が起こったのか、という視角の設定は、結局行われていません。分析のステップを一つ飛ばした結果、著者の視角の設定自体が、適切ではなくなってしまったように思われます。

また、陸軍の近代化派と現状維持派の争いについて、著者は、「両者はその基底においては一致点を有しているのであり、実際上の相違は、結局その程度方法の如何ということにあった」と評しています。これでは、程度問題と見ているようで、適切な認識とは思われません。その原因は、著者が、近代化の原資を生み出す手段としての陸軍リストラ問題、という課題の記述を飛ばしてしまっているためであるように思います。

現状維持派の本質は反リストラであり、その手段として近代化反対であったわけで、つまりは「第一次世界大戦の衝撃」を無視しようとする動きでした。一方、近代化派は、実際に第一次世界大戦の衝撃を受け止めて対応をはかろうとしていたのですから、「程度問題」では全くありません。ただし、リストラ実行上で現状維持派の反対に妥協するところが多く、結果的に近代化もきわめて不徹底になった、と評するのが妥当と思います。

幕末期の「黒船」には、「攘夷派」がいつの間にか「開国派」に変じて「明治維新」の改革を断行、秩禄処分によって武士の身分を全面的に取り上げました。他方、第一次世界大戦期の「黒船」では、「開国派」(=近代化派)は、「攘夷派」(=現状維持派)を押さえきれずに妥協、結果的に、「維新」(=軍のリストラによる近代化・基盤としての工業化水準の引上げ)はきわめて中途半端になってしまった、すなわち日本陸軍は、著者の見解とは異なり、「黒船」に対し、「第二の開国」どころか、むしろ「鎖国」を行ってしまった、と評するのが妥当ではないか、と思いますがいかがでしょうか。

ただし、本書のうちで、「日本陸軍のアメリカ認識」の章は、なかなか面白いと思いました。なお、本書からは、本ウェブサイトでは引用等は行っていません。


黒野耐 『日本を滅ぼした国防方針』 文春新書 2002

黒野耐 日本を滅ぼした国防方針 表紙

著者は、防衛大学卒で陸上自衛隊に入隊、陸将補(=旧軍の少将に相当)で退官、その後は防衛庁防衛研究所で戦史部主任研究官となった経歴の持ち主です。

著者は、日露戦争の開戦時、陸軍にはロシア軍の満州集結未完に乗じた撃破の戦略、海軍は極東と本国に分離したロシア艦隊の各個撃破の戦略があり、軍にも戦争期間を1年と限定して平和交渉に入る戦争終結の構想があっただけでなく、政軍の指導者は、日英同盟、英米における日本支持の世論喚起、ロシアに対する諜報・謀略などの政略を駆使して、戦争を短期間で集結させるための布石を打っていたことを指摘。

それに対し、大東亜戦争時に、「確たる勝算も戦争終結の目算もないまま開戦を決断したのは、日本が採ってきた国家戦略と国防政策が基本的方向性を誤っていった結果の累積」であり、大東亜戦争の開戦の過程を国防思想の変遷から眺めるのが本書のねらい、としています。

此の「ねらい」に対しては、「帝国国防方針」が格好の材料である、として、日露戦争後からの国防方針の変化が記述されています。

「帝国国防方針」は、日本の陸海軍が、それそれの組織の部分最適を国家の全体最適よりも優先させたことを最も分かりやすく示している証拠物件である、と言えるかもしれません。

本書も読む価値があります。本ウェブサイトでは、「日本が学ばなかった大戦の教訓 C 孤立せず国際協調」のページで、本書からの要約引用を行っています。


黒野耐 『帝国陸軍の<改革と抵抗>』 講談社現代新書 2006

黒野耐 帝国陸軍の<改革と抵抗> 表紙

すぐ上の『日本を滅ぼした国防方針』と同じ著者によるものです。

改革と抵抗の実態、改革が成功または失敗する要因、改革の実行にともなう副作用、改革を放置した場合の反動、など、改革の本質的問題が本書のテーマであり、それを考える材料として、日本陸軍80年の歴史の中の3つの改革が取り上げられています。

その3つの改革とは、@明治中期の桂太郎の陸軍改革、A大正の後半の宇垣一成の軍制改革、B昭和初期の革新運動とそれにつづく石原莞爾の参謀本部改革です。本書は読みやすく、また一読の価値があります。

本ウェブサイトでの関心の対象は、Aの宇垣一成の改革と、それへの抵抗についてです。本ウェブサイトでは、「日本が学ばなかった大戦の教訓 @ 戦争するより非戦争で工業化」、および「同 A 兵員数より最新兵器」のページで、本書から要約引用を行っています。


永田鉄山 『国家総動員』 大阪毎日新聞社・東京日日新聞社 1928

永田鉄山と言えば、昭和初期の陸軍統制派の中核人物であり、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と言われたほどの逸材です。満鮮視察の結果、朝鮮については自治の政体にして国防だけ日韓同盟、満州国については民政部門の日本人は顧問の域を出ないようにして軍人は国防方面だけに援助、と考えるほどの見識を持っていたと言われています(伊藤正徳 『軍閥興亡史』)。

陸軍軍務局長であった1935(昭和10)年に、皇道派に扇動された相沢中佐に斬殺されてしまいました。彼が生きていたら二・二六事件は起こらず、また日支事変も起こらず、起こっても必ず早期に解決したに違いないとも言われています(同上)。永田鉄山の斬殺は、誠に残念なことであり、日本が昭和前期の大きな不幸に進んでいった原因の一つとなったと思います。

本書は、この永田鉄山が、陸軍省整備局動員課長時代の1927(昭和2)年12月に大阪で行った、「国家総動員」についての講演録です。国立国会図書館「デジタルコレクション」でインターネット公開されています。

講演録ですから、分かりやすさが第一で、深く突っ込んだ分析追及はされていませんが、この当時の永田鉄山の考え方が分かる資料として参照しました。

本ウェブサイトでは、「日本が学ばなかった大戦の教訓 A 兵員数より最新兵器」、および「日本が学ばなかった大戦の教訓 C 孤立せず国際協調」のページで、本書からの要約引用を行っています。


石原莞爾 『最終戦争論・戦争史大観』 中公文庫 1993
(「最終戦争論」は1940年5月の講演速記に追補されたもの、
「戦争史大観」は1940年1月が最終稿)

石原莞爾 線最終戦争論・戦争史大観 表紙写真

本書には、「最終戦争論」・「『最終戦争論』についての質疑応答」・「戦争史大観」が収録されています。執筆出版の経緯等について、実弟の石原六郎による注記があるほか、五百旗頭真による解説が付されています。

石原六郎の注記によれば、「最終戦争論」は、1940年5月の講演速記に追補、『世界最終戦論』として立命館出版部より1940年に初刊。「『最終戦争論』についての質疑応答」は、初刊刊行後の反響に応えて1941年11月脱稿、『世界最終戦論』の新生堂版(1942年)に収録。
「戦争史大観」は、第1篇の「戦争史大観」は1940年1月が最終稿、第2篇の「戦争史大観の序説(由来記)」は同年12月脱稿、第3篇「戦争史大観の説明」は1941年2月脱稿、これらをまとめて中央公論社から出版しようとしたところ、同社が「発売に踏み切ったとたん、当局の指示で自発的絶版にせざるを得なかったもの」。

「最終戦争論」は、戦争史研究家としての研究成果を石原莞爾流に整理したものであり、「軍事上から見た世界歴史は、決戦戦争の時代と持久戦争の時代を交互に現出」し、今は「まだ持久戦争の時代」である、戦術は「点から線から面に来た」、次の決戦戦争の時代は「体(三次元)の戦法」で「空中戦を中心としたもの」になる、「戦争発達の極限に達するこの次の戦争で戦争がなくなる」、優勝戦を戦うのは東亜と米州、「今から30年内外で人類最後の決勝戦の時期に入る」、というきわめて独自の戦争観を表明しています。

「戦争史大観」は、「最終戦争論」を持論とするに至った、石原莞爾の軍事史の見方に対する根拠を明らかにした論文とその説明であり、戦争史を、戦争指導要領・会戦指揮方法・戦闘方法・軍制といった観点から分析したものです。第一次世界大戦(欧州大戦)や第二次世界大戦でのヒトラーの電撃戦についての詳論も含まれています。ただ、作戦本位で、兵站まで含めた分析になっていない点は、石原の個性ではありますが、分析の限界にもなっているように思われます。

石原莞爾は、第一次世界大戦後の1923〜25年の2年ほど、戦史研究のためドイツに留学しています。研究の主対象は18〜19世紀のフリードリヒ大王とナポレオンの戦史で、第一次世界大戦の研究が主目的ではなかったこと、またドイツ留学の機会にイギリスやアメリカには立ち寄っていないことが、彼の物の見方を広げきれなかった要因になったように思われ、誠に惜しまれます。

しかし、現実に第一次大戦後のヨーロッパを体験し、ドイツの戦後ハイパーインフレも実経験したことが、「ドイツは主として経済戦に敗れて遂に降伏した」という認識の背景をなしている、とも思われます。実際、石原自身が、「私の最終戦争に対する考え方は…ベルリン留学中には全く確信を得たのである」と言っています(「戦争史大観の序説」)。

持久戦争論はなかなかの認識だと思いますし、最終戦争論も、軍事技術の長期的未来予測としては、ほとんどを言い当てています。ただ、持久戦時代の現実から、数十年先の最終戦争時代に向かっていくための対応策を考えるにあたり、「ドイツは主として経済戦に敗れて遂に降伏した」と明言しているのにかかわらず、当面の政策論において特に経済的な見方が弱かった点が、石原の理論の最大の弱点になった、と言えるように思いますが、いかがでしょうか。

本ウェブサイトでは、「日本が学ばなかった大戦の教訓 @ 戦争するより非戦争で工業化」のページで、本書から要約引用を行っています。



次は、第一次世界大戦後の軍縮期(戦間期)の日本の陸海軍に関するもののうち、海軍関係の個別の課題について論じているものについてです。


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