西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

日本が戦った第一次世界大戦

⑧ シベリア出兵 (1)
出兵に至る経緯

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
上 航行中の英艦隊
中 英軍の戦車
下 米軍の毒ガス対策
(『欧州大戦写真帳』より)
 
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日本が学ばなかった教訓参考図書・資料

カイゼン視点から見る日清戦争

「日本が戦った第一次世界大戦」の最後に、シベリア出兵を確認したいと思います。

シベリア出兵は、第一次世界大戦の最末期、休戦3ヵ月前の1918年8月に開始され、日本軍が撤退したのは、シベリアからは出兵開始から約4年後の1922年10月、北サハリンからの撤退はさらにそれから2年半が経過した1925年5月でした。すなわち、第一次世界大戦とは重なっていない期間の方が圧倒的に長かったのが実情です。

しかし、出兵が開始された時点では、第一次世界大戦の終結の見込みなど全く立っておらず、この大戦の作戦行動の一部として開始された軍事行動であったことは間違いありませんので、ここで取り上げます。

シベリア出兵は、その期間が4年を越える長期に及んだこと、また、カイゼン視点から見てみると重要な課題がいくつか見えてくることから、①出兵に至った経緯(1918年7月まで)、②出兵から英米軍の撤退まで(1918年8月~1920年1月)、③英米軍の撤退以後日本軍の撤退まで(1920年1月~1922年10月)の3つの期間に分けて、確認していきたいと思います。


出兵以前のシベリアの状況

ここからは、シベリア出兵の開始前の状況から、出兵、そして撤退に至るまでの全貌を扱った研究書である、原暉之『シベリア出兵』に従って、その経過を確認していきたいと思います。なお、同書ではしばしば、当時の日本での表記に従って、ウラジオストクは「浦潮」と書かれています。

まずは、出兵直前の時期のシベリアの人口について、同書からの要約です。

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出兵直前のシベリアの人口

1917年1月1日の人口、西シベリア(トポリスク県・トムスク県・アルタイ県)613万人、東シベリア(エニセイスク県・イルクーツク県・ヤクーツク州・ザバイカル州)312万人、極東(アムール州・沿海州・カムチャッカ州・サハリン州)97万人。

出兵直前のロシアの日本人在留者数

1917年6月末現在の公式統計、ロシアの日本人在留者数5891人のうち、圧倒的大部分はバイカル湖以東(浦潮3283人、ハバロフスク573人、ニコラエフスク499人、ブラゴヴェシチェンスク338人、ニコリスク295人、チタ217人など)。実勢はさらに多く、浦潮では1917年当時、届出ざる在留者約2000人。日本人在留者の職業、男は職人、女は醜業婦、女中、子守が多数。

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第一次世界大戦直前期のロシアの総人口1億7000万人ほどのうち、ほとんどはヨーロッパ側に住み、広大なシベリアにはわずか1000万人程度、しかもその大部分は、シベリアの中でもヨーロッパに近い方に住んでいたようです。

一方、当時ロシアに在留の日本人は、公式統計で6000人弱、届け出なしが浦潮だけで2000人、合わせると8000人ほど。日本の総人口がまだ5400万人程であったこの当時、日本人にとってのシベリア(とくに沿海州)は、現代の日本人にとってのシベリアよりも、はるかに親近感の高い存在であったろうと想像されます。日露戦争では敵対して交戦したものの、結果として共通の利害を認識して協調できるようになり、人の交流も進んだ、ということだったのでしょう。日露戦争後ロシア革命に至るまでの期間は、日露二国間の歴史上で、人的交流が最も拡大した時代であった、と言えるように思います。

日本の第一次世界大戦の地図 1918-22年 シベリア出兵


出兵論の契機 - ロシア革命

日本でシベリアへの出兵が論議される契機となった事件がロシア革命であったこと、は間違いありません。再び、原暉之 『シベリア出兵』からの要約です。

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ロシアの2月革命に、日本は危惧と狼狽

日露戦争後、東アジアにおける共通の利害を通じてツァーリ政府と密接な関係をとり結び、そうした関係を自らの大陸政策の不可欠の柱とみなしていた日本。1917年2月革命による帝政ロシアの終焉は、日露協商が崩壊に帰することへの危惧と狼狽

10月革命が勃発すると、参謀本部はすぐに出兵計画を策定

1917年11月7日〔当時のロシア暦では10月〕、首都十月革命。11月中旬、参謀本部では「居留民保護の為極東露領に対する派兵計画」を策定。沿海州に臨時編成の混成約一旅団を派遣、主力を浦潮に、一部をハバロフスクその他の要地に配置、北満洲にもほぼ同数の兵力を派遣、主力をハルビンに、一部をチチハルその他の要地に。この計画は、翌年1月以後さらに練り直されてゆく一連の派兵計画の、出発点となる。

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前ページで確認しました通り、第一次世界大戦中の日本は、ロシアからの支払いが止まっても武器援助を継続したほどで、帝政ロシアとの協調関係を重く見ていました。日本には、2月革命で帝政が倒れたことがショックであったろうことは、間違いありません。

一方、10月革命が起こったとたん、とにかく日本軍の出兵計画を策定する、という発想が適切であったかどうか。とりわけ、2方面に各1旅団を派兵する、という内容であったことからすれば、「居留民保護」の目的には派兵規模が大きすぎるように思われます。したがって、派兵の目的は革命への干渉などにあったように推測されますが、そうであれば、例えばロシア国内の反革命勢力からの派兵要請が先に来る必要があり、それなしに日本が勝手に干渉軍を送っても、上手くいく可能性は低かったように思われます。


1917年末、革命は急速にシベリアにも進展

上記の参謀本部のよる最初のシベリア出兵計画は、シベリアでの革命の進展速度と比べると、むしろそれに先駆けて策定されたようです。再び、原暉之『シベリア出兵』からの要約です。

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10月革命後、翌年2月までに、シベリアは急速に「ソビエト」化

クラスノヤルスクでは、11月11日ソビエトは権力掌握を宣言。オムスク・ソビエトが権力掌握を宣言したのは12月13日。トムスク・ソビエトの権力完全掌握は翌年2月8日。イルクーツク、革命派対反革命派の市街戦、反革命派による反乱は1月3日までに鎮圧。浦潮の労兵ソビエトが権力掌握を宣言するのは12月12日、しかしソビエトとゼムストヴォ代表が権力を分有、干渉を招かぬように。

地主的土地所有を欠くがゆえに、全体として有産自由主義勢力が弱く、他方では様々な党派の政治流刑囚が共存しつつ政治的影響力を競い合っているという、シベリアの政治生活の特殊性。さらに、前線兵士の抑えがたい帰郷心。臨時政府の打倒・休戦の実現で、彼らはほとんど自然発生的脱走に近い形で郷里へ。革命の展開が遅れていた地方に急進的な機運。彼らの帰還に伴い、「西伯利亜においては漸次過激派の勢力に加わるは已むを得ざるものの如し」。

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当時のシベリアでは、帝政あるいは反革命に対する支持が非常に弱かったようです。


英仏の革命干渉論、米の慎重論

他方、十月革命によるボリシェヴィキの政権掌握は、英仏にとっても不都合な状況を生みだしました。ロシアが東部戦線から離脱する、するとドイツ軍は兵力を西部戦線に転用可能となる、またロシアに出来た政権そのものが資本主義否定の好ましからざる政権である、という点です。ここから、英仏では干渉論が強まり、一方米はそれに慎重でした。以下は、細谷千博 『シベリア出兵の史的研究』からの要約です。

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イギリスの干渉策、もともとは、「東部戦線」の再建が目的

東部戦線再建の3方式、①ボリシェヴィキ反対派の勢力を強化して反独抗戦力の中心に、②ボリシェヴィキ自身の内部に再び戦争意欲、③余剰兵力を保持する日本・アメリカの軍事力をロシアに投入して新しい東部戦線を形成。革命直後の段階においては、少なくともロイド・ジョージ、バルフォアといった指導的政治家の主観的意見においては、対ソ武力干渉の問題は主として《東部戦線》再建の意義で把握、対独戦争への勝利という目的こそ全ての政策の基礎。

1917年12月末、イギリスから日米への最初の出兵要請

12月末、イギリスは日米に、ウラディヴォストークに堆積の軍需品の防遏のための共同出兵の申入れ、最初のシベリア出兵の提案。日本、出兵意思なし、軍需品の保護にはロシアの健全分子を活用、武力行動の必要ある場合には日本単独で、と回答。アメリカも「ロシア領土の占領を予想させる何らかの行動は直ちにロシアに敵対的なものと解され…」と不同意の回答。

アメリカの考え方

ボリシェヴィキ革命勃発に、アメリカの保守的支配層は本能的な嫌悪。しかし、当然に失敗との楽観的な観測から、形勢の《観望政策》。ボリシェヴィキ政権には援助物資を禁止、南部ロシアのカレーディン政権には財政的援助。国務長官ランシングが12月中に確立。他方で、ボリシェヴィキ政権に経済的援助の手を差し伸べることで、ロシア市場への投資可能性を開拓せんとする見解には、大統領最高顧問ハウスの支持。シベリア出兵問題に関するかぎりは、2つのグループのいずれも、消極的態度で一致。国務省グループもボリシェヴィキ政権の自己崩壊を想定・日本の支配力伸張を懸念。加えて陸軍省、西部戦線への力の集中を阻害の懸念。

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「出兵」という行動は同じでも、その目的を大戦のヨーロッパでの勝利に置く英仏と、極東の情勢を最優先で考える日本とでは、根本的に差があったと言えるようです。英仏にとっては、反ボリシェヴィキ派への支援も、その一義的な目的は革命への干渉ではなく、東部戦線再建のためであった、という点は、非常に重要な指摘であると思います。

一方、アメリカには、出兵不同意の理由としてであれ、ロシア人のナショナリズムを徒に刺激することの悪影響への懸念があったことが分ります。実際に起ったことからしますと、このアメリカの懸念は適切なものであったと言えるように思います。革命政権は自ずから崩壊するであろうと見た予測は、外れましたが。


出兵以前のロシアへの介入 - 日本海軍は戦艦と陸戦隊を派遣

シベリア出兵の開始は1918年8月でしたが、その半年以上前の1月に、日本は海軍の戦艦と陸戦隊を浦潮に派遣します。再び、原暉之『シベリア出兵』からの要約です。

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1918年1月、日本海軍の戦艦の浦潮派遣

1月1日、イギリス政府は日英米共同シベリア出兵を日本政府に申し入れ。寺内首相は英国に先んじて日本の軍艦を浦潮に進入せしめることが急務、と主張。急遽呉の戦艦石見と横須賀の戦艦朝日にそれぞれ陸戦隊1中隊を乗船させて浦潮へ。戦隊司令官には、「外交的手腕もあり海軍部内きっての露西亜通」の加藤寛治少将。石見は12日、朝日は13日に浦潮に到着。菊池総領事は、日本艦入港の目的は居留民を保護するためであって内政には干渉しないと言明したが、住民の反撥をかわすことはできず。

1918年4月、浦潮に日本をはじめ各国陸戦隊の上陸

浦潮労兵ソビエト、3月13日、ソビエトによる全権力掌握のボリシェヴィキ提案採択。3月下旬、郵便・電信の掌握に乗り出したソビエトと反対勢力の対立から緊張。領事団会議、いずれも自国政府に陸戦隊上陸につき請訓することに決す。アメリカ領事は「日本が居留民保護上単独行動を執ると雖も毫末も不都合の理由なし」との見解。3月末、英国領事館がソビエト執行委員会によって捜索を受け館内に匿われていた数名の白衛派軍人が逮捕される事件。4月4日、日本人居留民1名殺害1名重傷の事件、謀略の疑惑。同日午後、加藤と菊池は協議して陸戦隊上陸の段取りを決定。上陸は翌5日早朝と6日早朝、総勢約500。イギリスは5日午後、約50名上陸。

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日本海軍の戦艦はイギリス艦に先んじて浦潮に到着したものの、その派遣自体は、イギリス政府からの共同シベリア出兵の申し入れに基づくものであったこと、陸戦隊の上陸にあたっては日本の謀略と思われる事件が発生しているものの、やはり各国陸戦隊の上陸と同時に行われたことなど、日本海軍の動きはあくまで国際的な共同行動の一環であったことが分ります。


出兵以前に、日本陸軍の独自の緩衝国形成の工作

一方、日本陸軍は、海軍とは別に、独自の行動で介入を行います。再び、原暉之 『シベリア出兵』からの要約です。

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日本陸軍は独自の傀儡政権工作、1918年1月に中島少将を派遣

陸軍は陸軍で独自の準備。要地に諜報員を配置、参謀本部員坂部中佐、参謀本部第二部長中島正武少将を現地に派遣。出発にさいして中島は、上原勇作参謀総長より「極東において帝国支持の下に防堤」、寺内首相からは「露人にして極東に穏健なる自治体を作りもって勢力ある堰堤」。日本の息のかかった緩衝国、傀儡政権を組織せしめること、これが中島に課せられた任務。中島少将は1月23日に浦潮に、27日に武市(ブラゴヴェシチェンスク)に到着、2月7日浦潮に帰着。

1918年3月、陸軍主導の武市事件と海軍加藤司令官による批判

1918年2月に入って武市の情勢は緊張。反革命派の市民自衛団・日本義勇軍と、革命派との対立。3月6日、反革命派側は革命派の襲撃を開始、革命派部隊は、アムール河海軍根拠地に退却したが、9日には反革命軍に予想外に手痛い反撃、12日戦闘を再開後、結局、革命派の勝利。海軍の加藤司令官、「事件突発の動機が悉く日本側の援助によりて始まり、かつその失敗がまた日本側の不準備によること、過激派にも温和派にもすでに悉知の事実となれり」、「畢竟、隠密裏に行う小策は、徒に帝国将来の行動を制肘する外、何等国策上に利する所なし」。

1918年2~3月、シベリアでの過激派勢力の一層の拡大

参謀本部作成とみられる1918年2月20日現在のシベリア現勢図、解説には、「『ザバイカル』州以西は全然過激派の勢力下に立ち、以東は過激穏和両派互いに抗争中」、地図上の各地点の色分け、過激派:浦潮、ニコリスク、ハバロフスク、チタ、ヴェルフネウヂンスク、イルクーツク、クラスノヤルスク、オムスク、穏和派:ブラゴヴェシチェンスク(武市)、イマン、満州里、勢力相半ば:トムスク。この時点から1ヵ月とたたないうちに武市とイマンで反革命派が排除される。

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ここに至って、当時の日本の首相および陸軍参謀本部の対ロシア政策の本質は、「緩衝国・傀儡政権づくり」にあったことが分ります。革命ロシアと日本との間に出来れば緩衝国がほしい、それが傀儡政権であれば日本にとって最も都合が良い、と考えたのは、心情的には理解できなくもありません。

「緩衝国・傀儡政権づくり」という目的に対して、出兵すなわち軍事的支援という手段は必要不可欠であるとは言えません。したがって、出兵以前から緩衝国づくりを試行していた、というのは、目的に対してむしろ整合性が取れています。

問題は、武市事件についてであり、陸軍は、せっかくの失敗からの反省が不十分であったように思われます。緩衝国づくりには、何よりも反革命派への支持が広がることが重要であり、それなくしては軍事的な優位性の保持は困難であることが、この件から分かります。すると、反革命派への効果的な支持拡大策は何かを検討して、それを積極的に実行することが、適切なカイゼン策になります。しかし、そうしたカイゼンは行われなかった、と言わざるをえません。


日本が応援しようとしたロシアの反革命勢力

傀儡政権工作には、その政権の顔になる人物が必要です。陸軍は、ロシアの誰を担ごうとしたのかについて、再び、原暉之 『シベリア出兵』からの要約です。

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日本は、ロシアの複数の反革命勢力を支援

日本の傀儡政権擁立工作、第一にカザーク〔コザック〕反革命勢力、第二に在華旧ロシア勢力を対象、両者に比べて期待の度合いは低く、結びつきは弱いが、第三にピョートル・ヂェルベルに率いられた自治シベリア臨時政府と称するエスエル系グループ。

カザーク反革命のセミョーノフ

2月革命後、セミョーノフは「異族人(モンゴル=ブリャート)」義勇兵部隊の編成を計画。首都十月蜂起の数日後、セミョーノフはボリシェヴィキとの武力対決の決意。満州里には12月31日に移り、根拠地に。アタマン〔頭目〕の称号。セミョーノフの部隊編成、日本はもとより、一時期英仏両国からも熱い視線。1918年1~2月と4~5月のザバイカル侵攻には失敗。日本は1918年2月、セミョーノフ軍支援を閣議決定。

在華旧ロシア勢力の中心人物、ホルヴァート

北満州内の中東鉄道〔東清鉄道とも呼ばれる〕付属地は一個の独立国と化し、数知れぬ避難民と白衛派の軍人、政治家が大量流入したその首都ハルビンは、シベリア反革命の策源地の様相。日本参謀本部が傀儡工作の現地推進本部をここに置くことにしたのは1918年2、3月の交。中島少将はここに本拠を移す。これ以後の工作の対象、本命は中東鉄道長官ホルヴァート長官。反革命政権の樹立が不可欠だが、中国領土たるハルビンでは穏当を欠くし不可能、さりとて沿海州なりに乗り込んで政権を樹立するだけの実力は当面もちあわせない。与えられた合法的枠組の中で一種の仮想政府づくり。

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なお、海軍の加藤司令官は、陸軍に対抗して、ピョートル・ヂェルベルに率いられた自治シベリア臨時政府と称するエスエル系グループ(1918年2月にトムスクでボリシェヴィキとの対立に敗れ、連合国工作のためにウラジオストクに拠点を移動)を支援したとのことです。

セミョーノフであれ、ホルヴァートであれ、ヂェルベルであれ、日本軍が支援しようとした勢力は、ボリシェヴィキのレーニンなどと異なり、大衆からの広範な支持を得られそうな人物ではなかった、すなわち、そもそも「玉が悪かった」ように思えるのですが、いかがでしょうか。


1918年1~3月の日本国内、
政府は対米協調で出兵反対、参謀本部は詳細な出兵計画づくり

この時期、日本国内では、政府は出兵に否定的、他方参謀本部は出兵準備を進める、という状況にあったようです。再び、原暉之『シベリア出兵』からの要約です。

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1918年1月、田中義一参謀総長の干渉構想

日本の対露干渉政策の中心勢力は陸軍、その中心人物は田中義一参謀総長。田中が自身の構想をまとめた「シベリアに関する意見」、1918年1月12日以後比較的早い時期に、寺内首相に提出。バイカル湖以東における緩衝国形成、資源掌握、「日支提携」との関連付け、といった日本陸軍の対露干渉政策の基本命題が出揃っている。また、列強の反応に対する楽観的な見通し。

1918年2~3月、政府上層部は対米協調

イギリスは一貫して共同出兵方式を主張。日本を連合国の受託者として行動させ、できればウラルにまで日本軍を引き出すことが日本出兵容認の条件。フランス政府、これに同調。しかしアメリカ政府、3月5日付大統領覚書、対露干渉の現時点での有効性に疑念を表明。3月9日外交調査会では、対米協調論者たる原や牧野だけでなく、他の委員からも対露干渉政策の急先鋒本野の出兵提議に非難。本野の出兵構想はひとまず挫折。

1918年3月、参謀本部は出兵の詳細計画

参謀本部は3月、包括的な「極東露領に対する出兵計画」。沿海州・アムール州方面では、第一軍がニコリスク、ハバロフスク付近を占領、さらに占領地域をアムール鉄道沿線およびアムール河沿岸に拡張。ザバイカル州・北満洲方面では、満州駐箚第7師団と朝鮮から出動する歩兵第40旅団がまずザバイカル州に進入、第二軍前進のための地歩を確保、第二軍はチタ付近に進出したのち、占領地域をバイカル湖付近に拡張。派遣兵力としては、沿海州・アムール州方面に1師団、ザバイカル州・北満洲に1師団1旅団、これは1次分でそれに続く2次分としてほぼ同数の兵力を両方面に派遣。

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独自の対露干渉策にこだわって出兵に向かって着々と準備を進めていく参謀本部と、アメリカを含む国際的な合意が得られない状況では出兵に否定的な政府との考え方の違いが明らかです。

なお、シベリア出兵に否定的であったのは政府だけではなく、当時まだ「陸軍の重要人事」の「最終決定者」であった山県有朋も、「田中参謀次長が英・仏・米などの動向を楽観的にとらえ、シベリア出兵を急ごうとする姿勢には反対で、1917年末から翌18年春までは出兵に慎重であった」(伊藤之雄 『山県有朋』)ようです。


参謀本部の「出兵策」は、そもそも不適切、目的と手段に重大な齟齬

上述の通り、ロシア革命後の状況で、参謀本部が「緩衝国形成」という願望を持ったことは、心情的には十分に理解できます。しかし、カイゼン視点から見る時、その方策としてとにかく「大規模な出兵」という判断が妥当であったようには、とても思えません。「大規模出兵策」では、目的と手段に重大な齟齬をきたす、と言わざるを得ないように思いますが、残念ながら、多くの研究書に、この点の指摘がありません。

ビジネスの世界に置き換えて言えば、相手国企業との合弁を前提としたビジネス(「緩衝国形成」)を目的として掲げているのに、その詳細ビジネス計画は自社単独の海外工場設立計画(「出兵策」)しかなかった、というようなもので、明らかに目的と手段がずれていた、と言わざるを得ないように思われるのです。

出兵は、その地域の住民の反感を昂進させてしまうものです。すでに1月の陸戦隊を載せた軍艦の派遣で、ウラジオストクでは反発を招いていました。4年前の青島攻略戦でも、日本軍は現地住民から反感を持たれました。そもそも日清戦争時の朝鮮でも、派兵された清国軍・日本軍の両軍とも反感を持たれました。参謀本部は、こうした経験からの学習を適切に行ってこなかったと言わざるを得ません。

出兵は、余程の工夫を実施した上でないと、地域の反日意識を高めてしまい、結局は日本が望む結果を得にくくしてしまうものだ、というのが経験則です。日本が出兵して支援する勢力は、日本が支援しているがゆえに住民から支持を得られない、という状況は、当然想定すべきなので、日本からの出兵は最小限にとどめるなど、その対策の検討が必要であったと思います。

大規模出兵策は、軍事占領のためなら非常に合理的でした。しかし、「緩衝国形成」を目的とする場合には、全く不合理な方策であった、と言わざるを得ないように思いますが、いかがでしょうか。

そもそも日本には、国外に緩衝国を形成するという行動が未経験にもかかわらず、緩衝国はどうすれば形成できるかの十分な議論もなかったように思われます。日清戦争や日露戦争など、敵国に勝利するための戦争には十分な経験がありましたが、それと緩衝国形成は目的が違いすぎます。戦争に勝つ能力があるのだから緩衝国を形成する能力もあるだろうと考えていたなら、重大な勘違いでした。


「緩衝国形成」が目的なら、軍事支援よりも経済・民政支援

では、どうするのが適切だったのでしょうか。「緩衝国形成」には、何よりも国家として曲がりなりにも自立できる経済と、その国家を統治できる政府が必要で、しかも国民の中の支配的勢力からの支持があって、初めて国家としての存続が可能となります。

気候条件が厳しく工業化も進展していないシベリアに緩衝国を成立させるには、まずは国家として自立できる経済の確立が前提条件になります。その国家の経済を天然資源に頼るなら、例えば「資源確保」と言っても、日本が資本と技術を出して開発を行うものの、資源の所有権自体は緩衝国側にあり、日本は資源の優先配分にあずかるだけ、程度にとどめておかないと、国家としての存続が困難になってしまいます。また、資源開発は、初期には費用負担だけが先行して、資本投入に見合った配分の利益を受けられない期間がある程度続くことも覚悟しておかなければなりません。

また、この時点でシベリアには、それなりの統治能力をもった政府と言えるものがなく、すでに見たように日本軍が支援した勢力も、それなりの政府を組織運営できる実力があったようには思われませんので、民政上の実務支援も重要であったと思います。ただし「緩衝国」ですので、日本は露出を最小限にする必要もありました。

すなわち、経済支援や民政支援といった手段こそが最重要であったように思います。それらについて、陸軍にノウハウと能力があったとは、とても考えられません。政府が行うべき課題であったと思います。もちろん治安の維持も必要ですので、軍事的支援も不可欠でしたが、兵器の援助や軍事顧問団の派遣を中心として、出兵は最小限にとどめるのが妥当であったように思われます。

出兵は巨額の資金を要する行動ですが、同じ金額を使うなら、大規模な出兵に金を注ぎ込むよりも、派兵規模を抑えてその分を経済支援に回す方が、余程効果がある選択だったろうと思われます。


出兵に慎重なアメリカを転換させた「チェコスロヴァキア軍団」

シベリアには出兵しないというアメリカの判断は、1918年の7月に大転換され、その結果、8月からは日本を含め列国の軍隊が続々とウラジオストクに送られます。アメリカの判断の大転換の理由となったのは、「チェコスロヴァキア軍団」の存在にあったようです。チェコスロヴァキア軍団とはどういうものだったのか、再び、原暉之 『シベリア出兵』からの要約です。

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1914年、チェコスロヴァキア軍団の結成

チェコ軍団の前身たるチェコ戦士団(ドルジナ)の発足は1914年秋。ロシア政府により許可された、スラヴ系諸民族の義勇部隊の一つ。一方、当時西欧ではマサリクをはじめとする亡命政治家たちがチェコスロヴァキア国民会議を設立、民族独立の国際的認知の活動、軍隊創設の意欲。第一次大戦勃発の時点でロシアには少なくとも10万人のチェコ人とスロヴァキア人が居住、また大戦中にロシアの俘虜となった両民族の将兵は20万ないし25万人。居留民と俘虜を徴集。

1917年2月革命後、チェコスロヴァキア軍団は急拡大
実は佐官級以上はロシア人

二月革命の勃発。臨時政府の夏季攻勢で、チェコスロヴァキア狙撃兵旅団は戦闘で戦果、臨時政府の称賛。その結果、部隊の拡大、師団編成が許可。9月までに2万1760名。チェコ人将校ははじめのうちは尉官まで、佐官以上はロシア人、多くの場合二月革命後の新しい情勢に適応できず失業していた将校。

1917年10月革命後、チェコスロヴァキア軍団の西部戦線移送計画

十月革命勃発時、2個師団の3万人余から成るチェコ軍団はウクライナの前線付近に展開。マサリクの考え、連合国の一翼を担うには、戦場は西部戦線でなければならない。軍団を分散も消耗もさせずにフランスに輸送するため、1918年2月23日に軍団司令部はキーエフを撤収、ウクライナを脱し、東へウラジオストクまで進むよう指示。東進するチェコ軍団に対して、ソビエト政府は当初つとめて摩擦を避ける方針。

ソビエト政府側の方針転換で、5月14日、チェリャビンスク事件

軍団の先頭部隊が西シベリアから東シベリアに進みつつあった18年4月初め、ウラジオストクに日英陸戦隊が上陸。ソビエト当局は、軍団が連合国の干渉政策に利用されることへの危惧。軍団内部では対ソ強硬論者=武断派の抬頭。5月14日、チェリャビンスク駅でドイツ・オーストリア軍俘虜の乗った列車から投げられた鉄塊でチェコ人兵士が気絶して倒れた事件を契機に、軍団とソビエト当局は全面的対決。

軍団と反革命勢力は、シベリア鉄道沿線を支配下に

反乱開始時点で軍団は少なくも総計5万1千の兵力。シベリア、ウラル、ヴォルガで次々に占領地を拡大。6月に入って状況はますますソビエト側に不利に展開。チェコ軍団とシベリアの反ボリシェヴィキ勢力はウラルからニジネウヂンスクまでの長い鉄道沿線を支配下に。この手強い敵の登場に対し、ソビエト政府がとった措置は、一般兵役義務制の導入に基づく赤軍建設の推進。志願制から徴兵制への切り替えは5月29日づけの布告で宣言。内戦が本格的な段階に。

この状況に、英仏は干渉開始の方針

イギリス政府は、事件に最も機敏に反応、軍団がシベリア横断鉄道のかなりの部分を占領した今こそ干渉の機は熟したと判断、以前にもまして積極的に連合各国に働きかけ。フランス政府はこの頃までに軍団の西部戦線輸送方針を放棄、ロシア残留を可とする方針転換。しかしアメリカは依然躊躇。

1918年7月、アメリカの方針転換の根拠は「独墺俘虜」

6月25日、ウラジオストクに先着していたチェコ軍団は、僚友支援で西方に引き返すため、武器弾薬の支給と兵力の援助を連合国に要請。そのさい各政府にシベリア情勢の報告、軍団には圧迫、その元凶は「独墺俘虜」。ホワイトハウスはこの情報をきわめて重大な事実としてうけとった。もっともらしいデマゴギーだが、連合国の大義という観点からは名分が立ちやすい。7月6日、アメリカ最高首脳部会議、日本政府の同意を条件に、それぞれ約7000名のアメリカ軍と日本軍をウラジオストクに集結、の基本方針を決定。目的は独墺の俘虜に対抗してチェコスロヴァキア人を救済すること、国内問題に介入する意図なし、ロシアの政治的領土的主権の不侵害を保証、事態の発展を待って爾後とるべき措置を講ずる。

仕切り線

チェコスロヴァキア軍団という名前の軍団は、兵はチェコスロヴァキア人であり、チェコスロヴァキアの亡命政治家の指導を受けてはいたものの、軍団内の将校の多くはロシア人であり、反革命勢力と結び付きやすい組織であったことが分ります。

英仏からすると、実態としてシベリア鉄道沿線を実効支配する反革命勢力が現れたので、その勢力の優位性をさらに強化するために、出兵=軍事援助を行う、という考え方であったと解釈できます。妥当な傀儡政権候補が見つけられないのに、闇雲に出兵を考えた日本の参謀本部とは異なり、英仏の判断にはそれなりの合理性が一応はあった、と言えるように思います。また、英仏と日本のここでの思考の差が、のちに撤退時期の差になって現れてくるように思われます。

「独墺俘虜」とは、第一次世界大戦の状況下、ロシアに対してはすでに戦勝国になっているドイツとオーストラリアが、ロシアで捕虜になったその将兵を活用して、ロシアをコントロールしている、という「虚構」なのですが、この当時は、それがまことしやかに伝えられ、明らかな虚偽として排除されはしなかった、ということなのでしょう。

チェコスロヴァキア軍団を「独墺俘虜」から救出することが、アメリカを含む列国によるシベリア共同出兵の「目的」とされたものの、英仏の「ホンネ」は「ロシア革命への干渉」によって「東部戦線を再建すること」にあり、さらに日本の「ホンネ」は、「極東ロシアに傀儡政権の緩衝国を作ること」であって、全くズレていた、と理解するのが適切と思われます。


ここまで、シベリア共同出兵に至る経緯と、各国の思惑の相違、その中で日本の参謀本部の思考では目的と手段選択の間に重大な不適切が存在していたことを確認してきました。次は、出兵から撤退に至る経緯についてです。


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