1917年の最後に、この年の海上の戦いの状況と、その結果として生じたアメリカの参戦について確認します。
1917年の海上の戦い ― ドイツは重大な戦略転換を実施
この年、ドイツは海上戦について、大戦の帰趨に重大な影響を持つ決定を行いました。リデル・ハート 『第一次世界大戦』からの要約です。
2月、ドイツはついに無制限潜水艦作戦を採用
アメリカの参戦が効果を発揮する前に勝つ戦略
ドイツ海軍当局は、いまや量産体制によって格段に強化できるようになった“無制限の”Uボート作戦を復活すれば、連合国側を屈服させることができるであろうと言明。この意見に、ルーデンドルフは反対から賛成に姿勢を転換、宰相ベートマン=ホルヴェークの反対を制した。
1917年2月1日、客船、貨物船を問わずいっさいの船を即座に撃沈するという“無制限”方針を宣言。敵側でアメリカ参戦になるのは百も承知。ドイツは、アメリカのおもりが秤を狂わせる前に勝利を期した。
4月、アメリカはついにドイツに宣戦布告
無制限Uボート作戦の宣言、メキシコを扇動してアメリカ合衆国に敵対させようとしたドイツの試み、ウィルソン大統領も1917年4月6日、ついにドイツに対し宣戦を布告。しかし、1914年当時の英国よりもさらに準備不足、アメリカの参戦が心理的影響以上のものを与えるのはまだ先のこと。ドイツはUボート作戦が2、3ヵ月以内に決定的効果を収めるであろうと、自信をもって予測。
4月、無制限潜水艦作戦は、実際にイギリスに大きな圧力を発揮
ドイツのUボートの圧力、4月が最悪の月。連合国全体でほぼ100万トンの船舶を失い、うち60パーセントが英国のもの。4月の終わりまでにドイツ海軍が勝利を収めるという予想は見込み違いだったが、この比率で損害が続けば、国民が飢え軍隊の維持もおびやかされることは明らか。英国は6週間分の食糧しかたくわえていなかった。
ドイツの無制限潜水艦攻撃という作戦は、ドイツ自身にとっても非常に大きな賭けでありルーデンドルフも最初は反対であったこと、Uボートの量産条件が整ったことで作戦実施に踏み切ったこと、が分かります。
ドイツはすでに「カブラの冬」状況に陥っていましたので、勝敗を一気に決する方策としてこの作戦が決定されたわけです。ドイツ自身の「カブラの冬」と同様、イギリスも徹底的な経済封鎖には弱いはず、という読みそのものは当たっていましたので、この決定に妥当性が全く欠けていた、とは言えないように思います。その点、その後の方策無しに真珠湾やシンガポールなどの攻撃を行って米英に戦争を挑んだ昭和前期の日本軍とは相違していました。実際に、当初はこの作戦が大いに効果を挙げました。
ドイツの無制限潜水艦作戦に対するイギリスの対抗策
問題は、この作戦に対し、イギリス側が新たな対策を打てるかどうか、イギリス側が対策を打ったら、ドイツ側はさらにその対策を打てるかどうか、という対策競争に勝つことであったと思われます。再び、リデル・ハート前掲書からの要約です。
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イギリスの対抗策 ① ― ドイツの水路に機雷の敷設
英国駆逐艦部隊はヘルゴラント湾経由でドイツ軍が出航していったあとの水路に、数千の機雷を敷設。ドイツ掃海艇によって掃海されたものの、Uボートの通過を妨害遅延、Uボート乗組員を精神的に参らせて、Uボート作戦の衰退をもたらす最大の原因に。少なすぎる隻数と熟練した乗組員の不足、大きな精神的圧迫などが究極の崩壊を招いた。
イギリスの対抗策 ② ― 護送船団方式
1917年春の英国の危機、護衛船方式 the system of convoys with naval escorts こそ救いの決め手。英国海軍本部最大の失策となったのは、災厄回避策がことごとく失敗だったくせに、護衛船方式の採用に反対したこと。若手士官たちの主張を最後まで決定的に支援したのはロイド・ジョージ。5月10日、最初の〔護送〕船団がジブラルタルから本国向けに出航、これが見事に成功し、この方法は大西洋横断航路にも採用。護送船団の船舶の損害はわずか1パーセントに激減。1917年末には、Uボートの脅威は、解消しないまでも下火に。
ドイツ側にとっての問題は、イギリス軍側の対策による作戦効果の低下、という可能性を読めなかったことでしょう。実際に、機雷敷設と護送船団方式の採用というイギリス軍のカイゼン策が効果を発揮して、無制限潜水艦作戦の効果が失われました。
現代のビジネス世界でも、自社だけがカイゼンして他社にはカイゼンはない、あるいは外部要因には大きな変化はない、などという前提での予測はたいてい外れるものであり、何らかの技術革新や新しい競合の動きが必ず発生して、状況は変化していくものである、と予め想定しておくことが肝要とされている通りです。
加えてドイツ海軍は、次々にカイゼンを重ねていったドイツ陸軍と比べ、イギリス海軍の対抗策を上回るカイゼン策を出せなかった点で、及ばなかった、と言わざるを得ないようです。すなわち、無制限潜水艦攻撃の実施決定そのものには、妥当性が全く欠けていたとは言えないものの、その後のカイゼン競争に負けたため、実施しなかった方が良かったという結果を生じた、と理解するのが適切のように思われます。
1917年は、イギリスのカイゼンが大戦の勝敗の帰趨を転換させた年
1917年5月にイギリス海軍による護送船団方式が成功した時点で、イギリスは経済封鎖を免れ、他方ドイツへの経済封鎖は継続されることが確定しました。すなわちこの時点で、連合国は敗戦することは無い状況になりました。一方ドイツは、占拠している領土がいかに広大でも、最終的な勝利は困難になっただけでなく、アメリカを敵に回してしまった分、作戦の実施前よりもますます不利な状況に追い込まれてまいました。
加えて、この年の11月には、陸上でのイギリス軍のカイゼン努力、すなわちカンブレー戦での戦車の集中投入が成功をおさめたため、連合国側が最終的にドイツに勝利できる条件が整いました。1917年は、海陸双方でのイギリスのカイゼン努力が奏功した結果、大戦の勝敗の帰趨の転回点となった年である、と言えるようです。
アメリカの参戦は経済的判断が最大要因
こうして、第一次世界大戦に、ついにアメリカも参戦する事態となりました。このアメリカの参戦の決定については、経済的利害が判断の最重要の要因であったようです。以下は、AJP テイラー 『第一次世界大戦』からの要約です。
アメリカ、経済政策上から、中立方針を参戦に転換
はじめは、アメリカ政府は厳格に中立を保とうとしていた。銀行は交戦国に信用を与えないよう指示された。まもなく、実業家たちが大儲けのチャンスが失われつつあると不平、巨額の資金を連合国に供与。工場はイギリスとフランスの注文で時間外作業、経済は活気づいた。
もしドイツの潜水艦がこの貿易をとめたならば、不況、恐慌が起こる。もし連合国が戦争に負けたら、アメリカの貸付も失われる。最後の手段として合衆国は、アメリカの繁栄がつづき、金持ちのアメリカ人がますます金持ちになれるために参戦した。
ただし、実質的な参戦には時間を要した
アメリカの参戦は、連合国側に無限の資源をもたらしたが、それはかなり遠い将来に限られること。アメリカ合衆国には、大海軍があったが、陸軍はないも同然。数百万の兵隊が、徴募され訓練を受けねばならなかった。軍需工場はほとんどなかった。タンクも大砲もライフル銃までがイギリスとフランスから供給されねばならなかった。
戦争を防止し、また紛争時に支援を受けるための最善の方法は、防衛力の整備であるよりも、経済関係の緊密化にあることがよく示されている事例であるように思います。
1917年4月に参戦を決定したといっても、実際にアメリカ軍がヨーロッパの戦地に姿を見せたのは1918年4月で、参戦決定から1年が経っていました。その点でも、ドイツが無制限潜水艦作戦を開始した際の、アメリカの参戦が効果を発揮する前に勝つという戦略判断には、一応の合理性は存在していた、と言えるように思います。イギリス海軍が対抗して行った機雷敷設と護送船団方式の採用に対し、ドイツ海軍が有効な対抗策を打ち出せなかったことが、ドイツの敗戦に大きく影響した、と言えるように思われます。
次は、第一次世界大戦の最終年、1918年の戦闘の状況についてです。
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