西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

第一次世界大戦の経過

1915年 ①
西部戦線での塹壕戦

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
上 航行中の英艦隊
中 英軍の戦車
下 米軍の毒ガス対策
(『欧州大戦写真帳』より)
 
サイトトップ 主題と構成大戦が開戦に至った経緯

第一次大戦の経過
1914年① 西部戦線 1914年② 失敗の原因 1914年③ 東部戦線 1914年④ 海上の戦い
1915年① 西部戦線1915年 東部戦線ほか
1916年① 前半の戦線1916年② 後半の戦線1916年③ 海上の戦い1916年④ カブラの冬
1917年① 前半の西部戦線 1917年② 後半の西部戦線 1917年③ 東部戦線ほか 1917年④ 海上の戦い 1918年① 独軍の大攻勢1918年② 休戦 1918年③ ドイツの敗因
第一次大戦の総括日本が戦った第一次大戦日本が学ばなかった教訓参考図書・資料

カイゼン視点から見る日清戦争

クリスマスまでには終わっていると皆が期待した戦争は、年を越して1915年になりました。この年の戦況のうち、まずは西部戦線の状況について、確認していきたいと思います。


1915年は、「行詰り」「膠着と停滞」の年

1915年の戦況について、戦史を見ますと、リデル・ハート 『第一次世界大戦』は「行詰りThe Deadlock」、JMウィンター 『第一次世界大戦』は「膠着と停滞 Stalemate and Stagnation」というキーワードで、状況を要約しています。

全般的には行き詰まっていたとしても、その状況に対し少しでも有効な新しい対策があったのかどうかが、当然のことながら、戦況に大いに影響します。結論的に言えば、この時期のドイツ、フランス、イギリスの主要3か国の中では、ドイツが、膠着状態の中で、最もカイゼンに努力し工夫を行った国であった、と言えるようです。

第一次世界大戦の地図 日本陸軍参謀本部 西部戦線地図 1914-15<日本陸軍参謀本部 『世界大戦の戦術的観察』 第1巻 (国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開)所収の西部戦線地図 1914-15>


西部戦線の膠着とドイツの対応策

この時期の具体的なカイゼン策について、以下はリデル・ハート 『第一次世界大戦』からの要約です。

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長期戦になるとの認識と、長期戦が維持できる対応策

1914年も押し詰まったころ、西部戦線が膠着したことが、程度の差こそあれ各国政府、交戦各国の参謀たちによって認識され、その打開策が求められていた。

ドイツ軍の1915年のカイゼン

ドイツ軍ファルケンハイン参謀総長、1914年秋のイープル戦で増援を出さず、連合軍を救った。東部戦線でも、決定的な勝利を得るために必要な員数を動員することはしなかった。

けれども、いまや長期戦を避けられないことを察知し、消耗戦に備えてドイツの資源の開発にとりかかったことは、彼の手柄。戦場に塹壕を構築する技術は、他の国のどの軍隊よりもすぐれていた。軍用鉄道は予備軍の移送の必要から拡張されていた。武器弾薬とその製造用原料の補給問題は、精力的総合的な取組により、1915年春以降、供給は十分。ここに、のちの英国による経済封鎖にドイツがよく堪える力を発揮した秘密の根源、資源の経済的組織化と効果的活用の基礎。ドイツ産業界の指導者ラーテナウ博士 Walther Rathenau に負うところも大。

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ドイツ軍では、前線ではより防衛力の高い塹壕技術が導入され、兵站面では、武器弾薬の製造能力と前線への補給能力の整備が行われたようです。特に製造・補給という面では、ラーテナウ博士という企業経営者の協力が効いていたようです。


イギリス・フランスより優れていた、ドイツの塹壕技術

第一次世界大戦の西部戦線での塹壕戦とはどのようなものであったか、については、松代守弘 「西部戦線を支配した死の迷宮 塹壕戦」(『歴史群像アーカイブ 第一次世界大戦 上』 所収)に、豊富な図版とともに、詳細な説明があります。以下は、そこからの要約です。

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塹壕は、南北戦争でも日露戦争でも使われてはいた

19世紀半ばの南北戦争末期には両軍が塹壕を掘って対峙する局面あり。日露戦争においても1905年の冬には、両軍が陣地を構築して塹壕戦の状況。だが、19世紀末から20世紀初頭にかけては攻撃万能論、当時の戦術理論が防御を非常に軽視。

第一次世界大戦は、機関銃の登場で、「歩兵突撃は集団自殺」化

第一次世界大戦では開戦後まもなく「適切に機関銃を配備した塹壕陣地」への歩兵突撃は「単なる集団自殺」であることが判明してしまい、開戦からわずか2か月半ほどで戦線は全くの膠着状態。

第一次世界大戦の進行とともに、塹壕も頑丈化・進化

ドイツ軍がエーヌ河北岸の高台に塹壕陣地を構築しはじめた時も、最初はかなり粗末なつくりだった。ところが、連合軍の反撃を阻止しつづける過程で、ドイツ軍の塹壕は急速に頑丈かつ凝った構造となり、最終的にはあたかも「現代抽象芸術」のように複雑怪奇な死の迷宮へと「進化」していった。

英仏独3国の中でドイツ軍の塹壕が最も高度

塹壕陣地の構成、各国によって差があり、英式は単純な平行壕の組み合わせ、塹壕そのものの構造も比較的簡単。独式では塹壕の各所を可能な限りコンクリートで補強、機関銃座もコンクリート製のトーチカ造り、塹壕線そのものの配置も入り組んだ迷宮。

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サイモン・アダムズ 『写真が語る第一次世界大戦』には、各国軍の塹壕の内部の写真が多数載せられています。同書も、「ドイツ軍はとても立派な塹壕をつくった」、「連合国側の塹壕はずっと簡素なものだった」としています。ただし、その理由としてそれぞれ、「そこはドイツの国境となるはずだったから」、「占領された土地をいずれ奪いかえすつもりだったから」とされているのは、正しい説明とは言えないように思われます。

JMウィンター 『第一次世界大戦』では、「ドイツ軍の塹壕方式は込み入っていて、構築・管理ともに優れていたという記録がある。ドイツ軍が長い間守勢に立ち、連合国の猛砲撃と攻撃に耐えながらも闘える環境が必要だったから。敵の進撃前の猛砲撃の間は身を潜め、砲撃が止むと、機関銃手と援護兵が再び姿を現して、敵の前進部隊を皆殺しにできるというもの」とされています。この説明の方がはるかにしっくりきます。

1918年のドイツの春季攻勢では、戦車が無くても連合軍の塹壕線を超えて前進できたのに、連合軍がドイツ軍のヒンデンブルク線を突破するには戦車が必要であった、という事実は、ドイツは塹壕線を国境線にしようと考えていたわけではなく、また、ドイツの塹壕設計は純軍事的な理由から選択されたことを明証していると思われるのですが。

ともあれドイツ軍は、マルヌ川の戦いで機動戦の限界に達した結果、当面の最重要課題を、進出線の維持による体制立直しに切り替えたものと思われます。その新しい目的には塹壕が最も有効と判断して、エーヌ川の線に塹壕を掘り、体制を立て直すことに成功しました。

ドイツ軍に体制を立て直されてしまうと困るのは仏・英連合軍で、ドイツ軍から防御するために自分たちも塹壕を掘らざるを得なくなってしまった、するとドイツ軍は、さらに塹壕をカイゼンして、仏・英軍の攻撃力に対する自軍の防御力の優位性を維持し続けた、ということであったように思われます。

ドイツ軍は、攻撃万能論に凝り固まってはいなかったから、また柔軟で現実的な思考ができたから、こうしたカイゼンを短期間に生み出すことができた、と言えるように思われますが、いかがでしょうか。


ドイツ軍の導入した新兵器、毒ガス

この時期のドイツ軍が導入した新兵器に、毒ガスもありました。しかし、効果的な「カイゼン策」とはならなかったようです。再び、リデル・ハートの著書からの要約です。

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ドイツ軍による毒ガスの導入

塹壕戦の行詰りを打開する新しい決め手を見つけながらも、それを利用しそこなったのはドイツ軍。その決め手は毒ガスの導入。対抗策が比較的容易で、好機を逃した。

1915年4月のイープルでは、効果はあったが、戦勝に生かせず

1914年10月27日、ヌーヴ・シャペルNeuve Chapelle 戦区で、鼻と眼の刺激剤を含む榴散弾を撃ち込む初実験。効果はきわめて低く、戦後の公表まで全く気づかれず。次は1915年1月31日、ポーランドで催涙ガス弾、酷寒の悪条件のため効果なし。ドイツ軍総司令部はこのガスの価値にあまり信をおかず、4月22日、イープルでフランス軍塹壕陣地に対して毒ガスが使用されたとき、せっかく開かれた広い突破口に使える予備軍なし。連合軍側は援軍が急場を救った。

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リデル・ハートは、このイープルでの毒ガス使用について、フランス・イギリス両軍はドイツ軍捕虜から事前に情報を得ていても、何も有効な対策を行っていなかったこと、ドイツ軍も部隊が自軍のガスを恐れて積極的な進軍を行わなかったこと、を指摘しています。

さらにリデル・ハートは、同年9月のアルトワでのロース Loos 攻勢での、イギリス側による毒ガスの使用も詳述しています。ガス量が少なく十分な効果が挙がるには微量でありすぎ、場所によってはうまく運ばれていったが、場所によっては逆流してしまい味方にも被害を出したようです。毒ガスの有効性は気象条件に依存していて、場合によっては自滅も招く、使いやすいとは言えない兵器であることがよく分かります。


両陣営の外交戦、トルコとイタリア

やはり陣営としての総力戦、前線の戦闘だけでなく、中立国を自陣営に参加させるための、外交による戦いも続いています。再び、リデル・ハートの著書からです。

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トルコは枢軸国側に ‐ ドイツ外交の勝利

同じ時期にドイツ外交は、トルコの参戦という大きな成果。1909年以来トルコは「青年トルコ党」 Young Turk Party の支配下、この党は英国との友好親善を希求するこれまでの伝統を嫌悪。ファルケンハインは「トルコ参戦の決定的重要性」を、まずロシアへの軍需品補給経路に対する妨害、次に英国とロシアの軍事力の分散という2点から強調。〔トルコ軍によるコーカサス、エジプトへの〕攻勢は、戦術的には失敗だったとしても、ロシア軍と英国軍の大兵力をひきつけておいたという点で、ドイツ軍にとって大きな戦略的価値。

イタリアは連合国側に ‐ 影響は小

5月24日、イタリアは宿敵オーストリアに対し宣戦を布告。けれども軍事的には、イタリアの参戦が全戦局面に早急な、あるいは広範な影響を及ぼすことはなかった。イタリア軍が用意を整えておらず、またオーストリア国境の山岳地帯が大きな障壁。

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外交的にも、1915年は、ドイツ側の方が結果としてのカイゼン効果が高かったように思われます。

なお、総力戦と言っても、1国だけの総力戦ではなく、実際に戦闘能力のある国を陣営に加える、「陣営としての総力戦」が指向されていたことは、昭和前期の日本軍が学ばなかった教訓の一つ、と言えるように思います。


イギリス・フランスの西部戦線でのカイゼン策の乏しさ

では、連合国側、イギリスとフランスの停滞打開策はどうであったのでしょうか。また、リデル・ハートの著書からの要約です。

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西部戦線での英仏連合軍の無策

西部戦線に、フランス側が心理的、物質的に持てる力を集中させることは、軍事的原則からいえばもっともだったが、戦線停滞を打破する決め手がない限り、いたずらに墓穴を掘るに等しかった。フランス軍は新たな決め手になるような着想に欠けていた。

2月と3月中に、フランス軍はシャンパーニュ Champagne で5万人を失った。4月にはアルゴンヌ森林のはずれのサン・ミエル突出部 The St Mihiel salient で6万4000名を犠牲にした。協商国側、ドイツ側の損害を過大視し、防衛戦におけるドイツ軍の力と技量を見くびって、散漫な攻撃。5月、レンス Lens とアラス Arras 間、ヌーヴ・シャペル南方フェステュベール Festubert。6月18日までにフランス軍は10万2500名を失う、防衛軍側損害のほぼ2倍。

9月25日の英仏軍による西部戦線での攻勢は、それ以前の攻勢と同様、効果なしに終わった。シャンパーニュのフランス軍、レンスの向う側のアルトワ Artois における英仏連合軍。連合軍側の損害は24万2000名、ドイツ軍のそれは14万1000名。遠征軍総司令官、フレンチ卿からダグラス・ヘイグに。

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第一次世界大戦の地図 1915年 西部戦線の主要な戦地


英仏軍は、希望的観測の過剰・カイゼン無策から、膨大な死傷者

英仏軍側は無駄な攻勢を繰り返して、いたずらに損害を増やすばかりであったようです。その点で、リデル・ハートは、フランス軍のジョッフルとフォッシュ、イギリス軍のフレンチを強く批判しています。

後述しますが、イギリス軍側は、新しい奇襲攻撃方式を試みて、多少の成功は収めました。しかしフランス軍は1年間、どれだけ大損害を出しても、戦争の仕方をほとんどカイゼンしなかった点で、その上層部は軍を指揮する資質に欠けていたと言わざるを得ないように思います。

フランスの無策ぶりについて、リデル・ハートは、「協商国側が、真に賢明であったならば、軍需品の補給が増えて新しい英国軍が用意を整えるまで待機策がとられたであろうが、〔フランス軍総司令官〕ジョッフルは失地回復の願いとロシアへの圧迫を軽減する義務感、そして根拠のない楽観主義から、時期尚早の攻勢をかけた」と論評しています。メンツと願望に基づいた行動は失敗する、という典型事例になっています。

フランス側の主張に対し、英国遠征第一軍司令官ダグラス・ヘイグは、「重砲と砲弾の支給がなお不十分であり、これを満足させることが目下の急務であり、この弱点が修正されない限り攻勢計画も有害無益と主張した」とのことで、状況に対し適切な判断をしていたようですが、総司令官のフレンチ卿がフランス側に引きずられてしまいました。

現代のビジネス世界でも、意欲が高いことは人材評価のポイントの一つではありますが、いくら意欲が高くても、現実を直視せず希望的観測に基づいて行動するなら、失敗の可能性が極めて高くなります。まず現実を客観的に評価できる力があり、そのうえで意欲が高い人材、というのが一番望ましい人材で、意欲だけの人材では使えません。この時期のフランス軍は、昭和前期の日本軍と同様、人材の選び方を間違えていたように思われます。イギリス側は、9月攻勢の失敗後、総司令官がフレンチ卿からヘイグに交代となりました。フランスよりは健全な人材の使い方、と言えるように思います。

この時期の西部戦線で、仏・英連合軍の将軍たちが、メンツと意欲だけにこだわり事実を見ようとせず、カイゼン策なしに損害をいたずらに大きくしていった、という悪しき状況からの教訓を、昭和前期の日本陸軍は何も学ばなかったため、その後、中国・東南アジア・太平洋の戦線で同様の失敗をそっくり繰り返してしまったように思います。


軍トップも、ドイツの方が現実直視

なお、JMウィンター 『第一次世界大戦』は、この時期の西部戦線について、次のように評しています。要約です。

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ファルケンハインは、すでに「消耗戦」の見方

1年間各戦線で戦いが続いたのちも、依然として攻撃信仰。英仏最高司令部は、フランスにおける攻撃作戦を続ければこの大戦に勝てるという考え方に固執。ドイツ側、ファルケンハイン、西部戦線では壊滅戦争 annihilation ではなく消耗戦 attrition を戦う覚悟。

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消耗戦は望んでいた結果ではなかったでしょうが、現実がそうなっていることに気づき、それに応じた対策を素早く打ったという点で、ドイツのファルケンハインの方が、フランスやイギリスの司令官たちより優れていた、と言えるように思われます。


フランス軍よりは優れていたイギリス軍のカイゼン策

イギリス軍は、フランス軍ほどは無策ではなかったようです。また、リデル・ハートの著作からの要約です。

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イギリス軍による新戦闘方式の実験、対策すべき課題は武器弾薬の不足

意義ある“実験”、3月10日、フランダースのヌーヴ・シャペルにおける英国軍の攻撃、正面に35分間集中砲撃を加えたあと、砲兵隊がさらに射程をのばして砲火の弾幕を張り、その間にすばやく英国軍歩兵が突破。奇襲は完全に成功。だが、いざ正面が拡張されたとき、砲兵隊の準備射撃が不十分と判明。武器弾薬の全般的不足ゆえ。

イギリス政府の対策、ロイド・ジョージの軍需省の設置と積極的関与

英国、1915年春、砲弾の不足が公然の秘密に、『タイムズ』紙報道で世論が沸騰。軍需省 Ministry of Munitions の設置が決まり、ロイド・ジョージ David Lloyd George が担当大臣。これまでの怠慢、労働面での困難のほかに、主として軍部側で、絶えず需要を内輪に見積り新兵器を見くびる近視眼的傾向。

すでに1908年、ドイツ軍での多数の機関銃使用の報告。機関銃が戦場で主導権を握ったことが明確でも、遠征軍総司令部は1個大隊あたり2挺という配分を変えようとせず。ついに軍需省が支給の尺度を16挺にまで引き上げ。またストークス砲 the Stokes gun という軽速射臼砲が塹壕戦用の優れた兵器として広く流布されることになったのも、ロイド・ジョージの尽力。戦車開発を救い出したのも軍需省。

開戦後にいくら全力疾走をしても、戦前の怠慢による遅れは取り戻せず、そのために幾多の生命がむなしく消えていった。ソンム攻勢でさえ弾丸の補給量が足りなかった。1916年の終わりになってやっと武器弾薬の補給がある量に達し、それ以後も増産が続けられて、やっと物量面での不利を一掃した。

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イギリス軍は、戦争に巻き込まれた立場でもあり、必要な武器弾薬供給量を支える生産体制の準備に手間取った点はやむを得ない面があるにせよ、その制約条件を無視した作戦を実行し、あるいは機関銃の殺傷力に痛めつけられながら有効対策を取ろうとせず、その結果損害を著しく増加させた遠征軍司令部には、カイゼン精神が不足していたように思われます。

ところで、前線では砲弾不足の問題があることを指摘する記事が掲載された結果、前向きの対応が行われた、というこのイギリスの事例から、昭和前期の日本軍は学習できなかった、と言わざるを得ないように思います。軍の問題点を指摘する記事は、昭和前期の日本なら、即座に発行中止や制裁の対象になって、軍の問題点はカイゼンされずに放置されたでしょう。

この問題点に関し、イギリスでは文官のロイド・ジョージが乗り出して、軍の装備基準にも積極的に介入し、その結果イギリス軍の戦力が大いにカイゼンできたことは、ドイツでラーテナウ博士の協力が生産補給体制確立に大きな貢献があったことと同様です。

これらの事例からは、専門知識は軍事分野のみで、生産・労務・調達や物流の詳細知識を欠いている軍人だけでは、効率的な総力戦体制の確立とその運営は困難であり、こうした分野ではむしろ軍人が文官・民間人に従う方が妥当、という教訓が学べます。イギリスとドイツは、文官や企業人主導の生産補給体制の構築を実践したことで、長期の総力戦を戦えました。

このドイツ・イギリスの経験・教訓も、昭和前期の日本軍は全く採用せず、視野狭窄の軍人がすべてを主導し続けたのですから、敗戦という大失策を招いたことは当然の結果であった、と言えるように思われます。


次は、1915年の、東部戦線ほか、その他の戦線の状況について、です。


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