西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

日本が学ばなかった大戦の教訓

@ 国家の発展 −
戦争するより
、非戦争で工業化

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
上 航行中の英艦隊
中 英軍の戦車
下 米軍の毒ガス対策
(『欧州大戦写真帳』より)
 
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第一次大戦の経過
第一次大戦の総括日本が戦った第一次大戦
日本が学ばなかった教訓戦争するより 非戦争で工業化植民地保有は リスク化兵員数より 最新兵器 艦隊決戦より 海上封鎖 孤立せず 国際協調
参考図書・資料

カイゼン視点から見る日清戦争

第一次世界大戦では、敗戦国と戦勝国どちらにとっても、戦争の厳しい結末が明らかになりました。すなわち、敗戦国では帝国が解体され、植民地はもとより固有領土も奪われました。戦勝国も、得られたものは戦争の巨費と膨大な人命の犠牲に全く引き合わない、という結果になりました。(「第一次世界大戦の総括 D各国が得たもの・失ったもの」を参照ください。)

では、第一次世界大戦で世界のどの国も大損をしたのかといえば、そうではなく、逆に大儲けをした国もありました。アメリカと日本です。両国とも、勝った側の連合国に加わって多少の交戦はしましたが、主要交戦国とはなっていません。主要交戦国とはならず、むしろ膨大な資源を消費している主要交戦国への物資供給者となるのが、最も経済的利益が大きく、国際的な地位の向上にもつながることを、日本自身も経験したわけです。

ところが、日本は第一次世界大戦後も、戦争の交戦国となって勝てば儲かる、「戦争ビジネスモデル」は成り立つ、という日清戦争以来の誤解を持ち続けて、昭和前期の大失敗に至りました。ここでは、戦争が参戦国と非参戦国に与えた経済効果、そしてなぜ大儲けの経験をした日本はビジネスモデルの切り替えをしなかったのかについて、確認をしていきたいと思います。


第一次世界大戦で大儲けした日本 − 5割増の経済成長

日本は、第一次世界大戦に参戦したとはいうものの、実際の軍事行動は、陸軍による青島攻略戦や海軍による南洋諸島占領など、ごく限定的な作戦遂行にとどまり、またシベリア出兵は最末期から休戦後の行動でした。その点で、イギリスやフランス、ロシアなどの主要参戦国とは大きく異なり、たいして戦争をしていない状況にありました。

1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると、日本の経済は急成長、日本の実質国民総生産は、第一次世界大戦期の7年間のうちに、1914年の80億円から1921(大正10)年の120億円へと、5割増の経済成長を成し遂げた、ということは、すでに「日本が戦った第一次世界大戦 @第一次世界大戦期の日本の経済」で確認したとおりです。


大戦中は、万年赤字の貿易収支が、最大5億円超の大幅黒字に

下のグラフは、安藤良雄編 『近代日本経済史要覧』中のデータを筆者がグラフ化したもので、1912年から1920年までの期間の日本の貿易収支と正貨保有高の推移です。ほぼ慢性的に赤字であった当時の日本の貿易収支ですが、1915年から1918年の4年間に限っては、巨額の黒字が出ていたことが分ります。この間の好景気を反映して、正貨保有高も急増しました。

グラフ 日本の貿易収支 1912-1920
グラフ 日本の正貨保有高 1912-1920

大戦直前の1910〜14年の期間は、日露戦争の戦費調達を外債に頼ったことが原因で、外債の元利払いが大きな財政負担となっていた上に、経済規模に対して大きな軍事費支出も行っていて、国家の財政は危機状態にあり、景気も低迷していたわけですが、第一次世界大戦期には、対照的な好景気が経験されたわけです。


大戦景気で多くの成金

第一次世界大戦期の日本の景気がいかにすごいものであったかについて、今井清一 『大正デモクラシー (日本の歴史23)』からの要約です。

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大戦景気

大正4(1915)年の中ごろになると、日本経済は輸出の増加をきっかけに好況に転じた。この年の春ごろからロシアとイギリスにたいする軍需品の輸出がふえはじめ、下半期になると軍需品の輸出がますます増加したうえ、大戦景気で好況を迎えたアメリカに向けて生糸などの輸出が激増した。戦争でとだえたヨーロッパ諸国の商品にかわって日本の商品が、中国はもちろんインド・東南アジアや遠くオーストラリア・南米諸国にも進出するようになった。日露戦争以降、入超続きであった日本の貿易は、一挙に輸出超過に転じた。

ほうぼうで成金が出現

未曾有の戦争景気の到来は、成金をぞくぞくと出現させた。日露戦争後の成金は一部の株屋だけであったが、第一次大戦のほうは、景気の規模が大きいだけに、成金の規模もけたはずれに大きかった。成金の出現も、戦争景気の移りかわりを反映して、染料・薬品成金から鉄成金・紙成金・糸成金、株成金などとつづいたが、なかでも成金の横綱は、鉱山と船と貿易であった。鉱山成金を代表するのは、日立鉱山の久原房乃助。船成金は山下亀三郎・勝田銀次郎・内田信也。貿易では鈴木商店。

1920年になって戦後恐慌

大正7(1918)年11月に第一次大戦の休戦が実現すると、すぐに景気の反動が起こったものの、翌年3、4月ごろには、欧州復興のための物資の需要が増大してアメリカの好況も継続、大戦中を上回る戦後景気が訪れ、戦後恐慌が始まったのは、大正9(1920)年3月。

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戦後には、欧州列国からの軍需品需要や欧州列国からアジアへの商品供給の途絶という、戦時下に限って存在した条件が失われたわけですから、輸出需要が減退したことはやむをえないことでした。ともあれ、大戦景気のおかげで、日本の経済規模が短期間に大拡張できたわけです。


第一次世界大戦期の急成長を経ても、日本はまだまだ農業国

第一次世界大戦期間中に、日本経済は著しい急成長を成し遂げましたが、それでも日本はまだまだ農業国でした。以下は、石井寛治 『帝国主義日本の対外戦略』からの要約です。

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1910年代、著しい産業発展はあっても、依然、農林水産業の比重が上

1910年代を通ずる日本の産業構造の変化、産業部門ごとの純国内生産(賃金+利潤)で見ると、いずれの部門でも名目額で4倍前後伸びている中で、とくに運輸通信公益事業が4.6倍、鉱工業が4.3倍と大きく発展、農林水産業3.6倍。それでも鉱工業の比重が農林水産業のそれを上回るには至らず。鉱工業の中では、重化学工業(金属・機械・化学)が急増して食料品工業を抜いてトップの繊維工業に肉薄。

1920年当時の日本の粗鋼生産は、アメリカの50分の1、イギリスの10分の1という経済小国。軍備拡張を進めようとすればするほど、仮想敵国のアメリカからの工作機械の輸入にますます依存。

日本の紡績機械工業は、大戦前には機械修理を行い、準備工程の混打綿機など簡単なものを制作するのがやっと、全プラントの国産化は困難。国産紡績機械の全プラント化が完成するのは1922年ごろ。豊田自動織機、1926年3月完成。

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重化学工業が急成長したものの、まだ繊維工業は抜けず、さらに鉱工業が農林水産業を抜けなかった、ということですから、依然中進国レベルを脱していなかった、と言えるようです。自動車の国産化ができていなかったのも当然でした。


日本は、日清戦争戦勝時に、「戦争は儲かる」という誤解が生じた

大戦前、日露戦争の戦費負担の後始末で財政危機となっていたことと、大戦後は未曾有の好景気になったことを見比べれば、「戦争は自らするより他国にしてもらって、自国は戦争をしている他国に物を売って儲けるのが一番だ」という結論が共通認識化されていても良かったのですが、そうはならなかったようです。

日清戦争から第一次世界大戦までの各戦争の結果を並べてみると、以下のように整理できるかと思います。

日清戦争(1894〜1895)
  • 領土・利権等: 台湾の獲得
  • 賠償金: 2億円(使った戦費より多額の賠償金を獲得)
  • 戦争は儲かるもの(=「戦争ビジネスモデル」)という誤解が形成された
日露戦争(1904〜1905)
  • 領土・利権等: 南樺太の獲得、関東州の租借獲得、南満州鉄道の利権獲得、
    朝鮮の保護国化
  • 賠償金:なし
  • 領土・利権は獲得したが賠償金はなく、戦費調達に行った借款の返済で、以後の財政に重圧
第一次世界大戦(1914〜1918)
  • 領土・利権等: 赤道以南の南洋諸島の信託統治の獲得、南満州利権の継続拡大
  • 賠償金:なし
  • この戦争でも領土・利権を獲得、一方、主要参戦国とならなかったおかげで経済大拡張


「戦争は儲かる」という誤解を正し損ねた

10年ごとの3度の大戦争のうち、最初の日清戦争では、領土・利権も獲得し賠償金も取れて、確かに「戦争で儲かった」と言えます。

次の日露戦争では、賠償金を取れず、借金で戦費調達して領土と利権を獲得した形、つまりは、領土と利権を借金して買った、というに等しい結果となりました。その借金の返済は、その後の経済に大きな負担をかけ、他方財政が厳しいため満州の開発も進みませんでした。客観的に見れば、日露戦争後には「戦争ビジネスモデル」は疑われてよい状況となりました。

ところが、第一次世界大戦では、たまたまですが、領土も利権も獲得・経済も大拡張、という結果になりました。その結果、「戦争ビジネスモデル」の誤解が正されずに維持されてしまい、国家の軍事費支出の削減がほとんどできないという結果を生じして待ったのではないか、と推定します。

第一次世界大戦での日本には、最小限度の参戦で領土・利権を獲得、また主要参戦国とならなかったおかげで経済大拡張、という二つの特殊な条件が重なりました。通常はありえない余りにも特殊な条件であり、再現を期待してはいけない、と理解されるのが適切だったのですが。

第一次世界大戦後の欧州では、戦勝国でも戦争の結果に苦しんでいることに気づけば、「戦争ビジネスモデル」は成り立たないことが十分に理解されたはずだと思うのですが、そうならなかったことは、誠に残念なことであったと思います。

ついでに言えば、昭和の敗戦後の日本は、朝鮮戦争による特需で経済復興を果たしました。そのため、「戦争は自国が行ってはいけないが、近くで他国が戦争してくれると自国が潤う」というのは、少なくとも昭和の敗戦を経験した日本人には強固な共通認識となりました。これが第二次世界大戦敗戦後の日本人と、第一次世界大戦戦勝後の日本人との最重要な差であったかもしれません。


第一次世界大戦でも、多数の陸海軍の将官が「爵位」を得た

日清・日露など、戦争で功績のあった陸海軍の将官は、爵位を得て華族に列せられるという慣例は、第一次世界大戦時にも継続しました。小田部雄二 『華族』の末尾に付された「華族一覧」によれば、「第一次世界大戦の功」によって叙爵した軍関係者には、下記がいました。

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叙爵・陞爵の功績に、「第一次大戦の功」が挙げられている陸海軍人

1916年7月叙爵・陞爵

  • 岡市之助 男爵: 陸軍中将 <第一次世界大戦参戦・青島攻略戦時、陸軍大臣>
  • 長谷川好道 子→伯爵: 陸軍大将 <同、参謀総長>
  • 神尾光臣 男爵: 陸軍大将 <青島攻略戦を実行した第18師団長>
  • 八代六郎 男爵: 海軍中将 <第一次世界大戦参戦・青島攻略戦時、海軍大臣>
  • 島村速雄 男爵: 海軍大将 <同、軍令部長>
  • 加藤定吉 男爵: 海軍中将 <青島攻略戦に参加した第二艦隊司令長官>

1920年9月叙爵

  • 田中義一 男爵: 陸軍中将 <1918年9月〜、陸軍大臣>
  • 加藤友三郎 男爵: 海軍大将 <1915年8月〜、海軍大臣>
1920年12月〜1923年10月叙爵
  • 大谷喜久蔵 男爵: 陸軍大将 <青島守備軍司令官、浦潮派遣軍司令官>
  • 上原勇作 男→子爵: 陸軍大将 <1915年12月〜、参謀総長>
  • 大井成元 男爵: 陸軍大将 <浦潮派遣軍司令官>
  • 内山小二郎 男爵: 陸軍大将 <第一次大戦期の侍従武官長>
  • 立花小一郎 男爵: 陸軍大将 <浦潮派遣軍司令官>

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陸海軍人に対する叙爵そのものは、きわめて大きな戦功に対する当時の表彰の手段として、著しく不適切であったとは思いません。しかし、第一次世界大戦程度の戦功で、ここまで叙爵・陞爵を行ったことは、カイゼン視点から見ると不適当な影響が生じる可能性が懸念され、適切であったようには思えません。何しろ、第一次大戦の功による軍人への叙爵・陞爵は、上記のリストの通り全部で13人もいました。

上記のリストの中身を見て、まず気づくことは、青島攻略戦関係だけで6人もいて、しかも陸海軍から各3人と、陸海軍間のバランスが優先考慮されているようです。なお、海軍については、陸軍支援に過ぎなかった青島攻略戦が対象で、南洋諸島占領が対象とされなかった点は、実際の功績に比べ大きくバランスを欠いているようにも思われます。


第一次世界大戦では、失敗した作戦でも、軍人は授爵された

このリストで、とくに違和感を感じるのは、田中義一以下の対象者です。明らかに失敗であったシベリア出兵の関係者が多数です。出兵実施の責任を負うべき参謀総長の上原勇作や参謀次長→陸軍大臣の田中義一、あるいは現地軍司令官の3人までが対象になっているのは、信賞必罰の原則に合わないように思われます。

なお、政治家であるために上記のリストには入れていませんが、参戦時の外務大臣であった加藤高明にも、1916年7月に「第一次大戦の功」により男→子爵への陞爵が行われています。対華21ヵ条要求の失敗後でしたから、やはり陞爵の対象外とするのが適切であったように思われます。

松下芳男 『日本軍閥興亡史』も、「シベリア出兵は絶対に負けない戦争であって、軍人がこれに参加することは、『戦歴』を記入し、『戦功』を表示し、『勲章』や『爵位』を獲得するためのようなものであった」と指摘しています。負けない戦争でも作戦は失敗しましたが、「爵位」が獲得できてしまいました。

日清・日露の両戦争以来、軍人幹部にとっては、師団長級・司令長官級以上に出世して大きな戦功をあげれば、叙爵の栄典が得られる、ということは常識であったと思います。しかし、第一次世界大戦時の栄典の乱発・信賞必罰の不実施は、少なくとも一部の軍人幹部に、不適切な心証を抱かせた可能性があるように思われます。

高位の地位に居るときに戦争を起こして自らがそれに参加できれば、たとえ作戦自体は成功しなくても、軍人として叙爵の栄典にもあずかって華族になれる可能性がある、栄誉を得たければ戦争を起こすことである、という心証が、一部の軍人に抱かれた可能性があり、結果的に国家の方向性を歪めることにつながった、と言えるように思われるのですが、いかがでしょうか。仮説であって、具体的な検証が必要ですが。


本来の教訓 −
日本は、戦争を行うにも、国力増進・工業化促進が必須だった

日本が「戦争ビジネスモデル」観を放棄しないのなら、強力な軍隊の保有を続行する必要があるだけでなく、第一次世界大戦を経て「工業化された戦争」に変化した状況への積極的な対応も必要でした(「第一次世界大戦の総括 − 4つの総括B 兵器と軍事技術のカイゼン」を参照ください)。

この点は、当時の日本軍人にも理解されていたことでした。大戦中・大戦直後のヨーロッパに二度出かけて、大戦の状況と結果を自分の目で見た海軍大佐・水野広徳は、ドイツの敗因分析で、第一次世界大戦の特徴を表す言葉として、「国民戦」・「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」という言葉を使いました(「第一次世界大戦の経過 − 1918年B ドイツの敗因」および「参考図書・資料 − 第一次大戦後の日本の陸海軍D」のページをご参照ください。)

ドイツは、「国民戦」・「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」に敗けたわけですから、日本は、工業化を促進し、経済力・物力を高めて国力を増進するという対策を打つことで、戦争のあり方の状況変化に対応する必要がありました。


日本陸軍内でも、「産業上の一等国民は、戦場における最強国民」と指摘されていた

「元海軍軍人」の水野広徳だけでなく、日本陸軍内でも、第一次世界大戦の調査報告中に、工業化水準の高さの重要性を認識して、「産業上の一等国民は、戦場における最強国民」と指摘した報告があったようです。以下は、葛原和三 「帝国陸軍の第一次世界大戦史研究」からの要約です。

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陸軍内にも、産業力の重要性の指摘があった

第一次世界大戦について日本陸軍が調査した要点の抄録は、「参戦諸国の陸軍に就て」と題して発刊され、大正9(1920)年の第五版には、「産業上の一等国民は、同時に戦場に於ける最強国軍たり、戦時に於ける最強国民たるを得」としている。

また、臨時軍事調査委員からの「物質的国防要素充実に関する意見」は、「挙国一致を以て産業、特に運輸交通並びに技術の発達を助長促進し」と記している。

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海軍の水野広徳の日米非戦論と同様、こうした適切な指摘は取り上げられず、それどころか、その後は軍の装備の近代化すら不十分になっていきます。


犬養毅は、近代的軍備のための「産業立国主義」を提唱した

第一次世界大戦で出現した状況変化への対策として、工業化の促進を優先課題とする必要があることは、当時の日本の国政の場でも指摘されていました。以下は、戸部良一 『逆説の軍隊 (日本の近代 9)』からの引用です。

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総力戦のための産業力強化論

1921(大正10)年、まだワシントン会議開催の動きもない頃、国民党総理の犬養毅は産業立国主義を唱え、現役1年在営制と師団半減を主張した。彼は、総力戦の見地から産業力の強化を訴え、それが近代的軍備をつくりだす基礎である、と次のように論じた。

犬養毅の実際の主張 − 経済力がともなわなければ敗軍

今日の戦争は、軍人だけの戦争ではなくて国民全体の戦争であり、武力だけの戦争ではなくて武力と経済とを合した国力全部の対抗である。… 如何に精鋭な武器があっても、弾薬があっても、経済力がともなわなければ、結局は敗軍(まけいくさ)に終わるのほかないことは、この大戦が証明したのである。かような有様であるから、日本の陸海軍がどんなに力んでも、現在のような産業状態では、とうてい戦争はできない。… それよりは、平素の全力を産業の発達に用い、万一の場合には国力全部をもって対抗しうべき実力を養成しておくことが急務である。

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この犬養毅の主張は、カイゼン視点から見れば、状況の変化によって生じた新たな課題に対し、きわめて適切な対応策を提唱したもの、と評価できるように思います。

産業力が低い日本は、列国と戦えば敗けるだけ、したがって、工業化水準が先進列国に追いつくまでは、国際紛争から戦争に巻き込まれる事態を回避するよう、協調外交を行う、同時に国内では、工業化促進を最優先課題とする政策を実行していく、という方針を、まずは政軍で共有化することが最も適切でした。

工業化促進の費用の捻出については、工業化促進費も軍費の一部と考えて、その原資を軍組織の合理化によってひねり出す、という対策は、軍自身の目的の達成のためにも、最も適切であった、と言えるように思います。

ただし、このときは産業立国主義を主張した犬養毅ですが、10年後の1930(昭和5)年には、ロンドン軍縮会議後の海軍軍縮条約調印に関連して、政府を「統帥権干犯」であるとして追及、その後の軍部独走を招く原因を作りました。自党の勢力伸長を優先するための倒閣行動を優先するあまり、原理原則を曲げることがある政治家であったという点は、残念なところです。


日本陸軍は、教訓を実行しない、という選択を行った

では、産業立国主義の提案に対し、日本陸軍はどう考えたのでしょうか。以下は、黒野耐 『帝国陸軍の<改革と抵抗>』による、上記の犬養毅の主張と、後に宇垣軍縮を行った宇垣一成の考えとを比較した論評の要約です。

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「宇垣軍縮」の宇垣一成は、犬養「産業立国論」には同意しなかった

犬養の考えは宇垣のそれにきわめて近いものであったが、宇垣は、軍備縮小の論拠が薄弱である、と批判して、軍備の削減を基礎とする産業立国論には同意しなかった。犬養の正論を実行しなかったため、日本は長期的不況から脱却できなかったし、陸軍は常備軍を削減しても近代化できないというジレンマに陥っていく。

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犬養と宇垣の考え方は近かったと言っても、結果においては、第一次世界大戦で生じた状況変化に対応するのかしないのか、現に工業化促進の政策費を捻出するのかしないのか、という点で大きな差を生じました。

政府の予算のうち軍備費予算を削減し、そこで浮いた分を、たとえば鉄道や道路などのインフラ投資や、工場の設備投資の補助金などに充てれば、産業の発達が確実に促進されます。軍備費予算も、軍需産業への支援にはなりますが、産業全体の実力を底上げするものにはなりません。たとえば戦車は、トラクターという農業機械産業や自動車産業が発達していたからこそ開発できた兵器です。産業の裾野が拡大しなければ、軍需産業も強力にはならず、列国と比べ日本の軍需産業の総合力は低いままにとどまらざるをえません。

軍備費予算の削減に反対することは、「戦場における最強国民」たる「産業上の一等国民」を作る努力の足を引っ張ることでしかなかった、と言えます。強力な軍を作りたければ、急がば回れで、まずは産業力の強化から実施する必要がある、産業力の強化に使われる予算は、したがって強力な軍を作り出す予算の一部である、ということを、軍の共通認識とする必要がありましたが、宇垣には、その努力が十分ではなかったように思われます。

陸軍内の「近代化路線派」対「現状維持派」の対立については、後で確認しますが、宇垣が、陸軍内の対立に配慮して犬養の「正論」を取り上げなかったことは、結局は、日本陸軍が、第一次世界大戦の重要な教訓には従わない、という路線を選択したことになりました。日本陸軍は、教訓は分かっていたのに、実行しないことを選んだ、と言えるように思います。


第一次大戦のキーワード=「総力戦」、では抜け落ちること

ところで、第一次世界大戦後の日本軍に関する研究書の中に、上記の犬養毅の主張を取り上げて、第一次世界大戦での状況変化への最も適切な対策は、工業化水準の引上げ策であったことを論じているものが少ない、という印象を持っています。

日本の多くの研究書では、第一次世界大戦後の最大課題と言えば「総力戦対応」とされていて、重要政策課題としての「工業化促進」の必要性が抜け落ちてしまっており、その結果として犬養毅の産業立国論にも言及がないのではないか、と思われるのです。

「総力戦」という言葉は、良く知られているように、ドイツの参謀総長だったルーデンドルフがその著書のタイトルにした言葉であり、ドイツ・イギリス・フランスなどの先進経済国にとっての第一次世界大戦を論じる場合には、適切なキーワードの一つであるかもしれません。しかし、上述の通り、ロシアや日本のような非先進国・中進国にとっては、適切とは思えません。

それどころか、欧米の研究書の多くも、すでに「第一次世界大戦の総括 − 4つの総括B 兵器と軍事技術のカイゼン」のページで確認しました通り、第一次世界大戦についてのキーワードを、「工業化された戦争」としているものが多数であり、「総力戦」は適切なキーワードとはみられていないようです。

「総力戦」の本質が「工業力水準」にあることを明らかにしたうえで、したがって当時の日本は工業力不足で、列国に対しては戦争ができない国になった、と指摘するなら、「総力戦」がキーワードでも妥当であると思います。

しかし、「総力戦」をキーワードとして使用している日本の研究書の多くは、当時の日本と欧米列国の工業化水準との定量的な比較という事実確認は行わず、また当時の政策として何を行うのが最も適切であったのかを論じることなしに、「日本流の総力戦対応」の課題として、国家総動員体制や精神論の強調という論点に集中している傾向が感じられるのですが、誤解でしょうか。


水野広徳だけでなく、石原莞爾も、第一次大戦は「経済戦」

上述のように、第一次世界大戦の良い観察者であった海軍大佐・水野広徳は、第一次世界大戦の特徴を表す言葉として、「国民戦」・「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」という言葉を使いました。この4つの「戦」と「総力戦」を比べてみると、「国民戦」のイメージは「総力戦」と合致しますが、「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」がイメージするものは、「総力戦」という言葉から直接はイメージされにくいことに気がつきます。

「経済力」「物力」「国力」の優れた欧米列国には、日本は逆立ちしても勝てない、というのが、第一次世界大戦の教訓の一つでした。水野広徳は、列国との戦争は「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」とならざるを得えず、戦えば日本は必ず負けることが明らかであるとして、日米非戦論を主張するようになりました。

満州事変を引き起こした張本人である石原莞爾も、「第一次欧州大戦では … 両軍は大体互角で持久戦争となり、ドイツは主として経済戦に敗れて遂に降伏した」として、持久戦争を最終的に決着させたのは経済力と指摘しています。

そればかりか、すでに欧州ではヒトラーが攻勢が開始して「第二次欧州大戦」が始まっていた1940〜41年の時点でも、今日もまだ経済が勝敗を決する「持久戦争の時代」と認識、「今から30年内外で人類最後の決勝戦の時代に入」るが、そこで日本にとっては「東亜連盟の結成と生産力拡充という二つが重要な問題」であるとして、対応策として東亜諸国の国際協調と経済成長とを最重要課題に置いています。

こうした見方をしているがゆえに、石原莞爾も、「3年後には日米海軍の差が甚だしくなるから、今のうちに米国をやっつけるという者があるが、… 日米開戦となったならば極めて長期の戦争を予期せねばならぬ。米国は更に建艦速度を増し、所望の実力が出来上がるまでは決戦を避けるであろう。自分に都合よいように理屈をつける事は危険千万である」と、日米開戦に反対していました。

なお、石原莞爾の著書中にも「総力戦」の語は現れていますが、「それ精神総動員だ、総力戦だなどと騒いでいる間は最終戦争は来ない、そんななまぬるいのは持久戦争時代のこと」という、陸軍を批判する文脈の中での使用です。(以上はすべて、石原莞爾 『最終戦争論・戦争史大観』

海軍出身の水野広徳と陸軍の石原莞爾では、経歴背景は全く異なるものの、経済戦が第一次世界大戦を決したと理解していた点で共通しており、そのため国際協調や経済成長が何よりも重要な国防対策であって、経済水準がまだ低位の現状では日米戦争は回避すべきもの、との認識まで共通でした。

(ただし、石原莞爾の場合は、経済成長が重要と認識しながらも、現実の政策上では、参謀本部の課長〜部長時代に、対ソ戦対策から国防予算を大膨張させました。石原は軍事の専門家に過ぎず、経済成長はどうすれば可能かの知識を全く欠いていたため、と理解するのが妥当のように思われます。)


より適切なキーワードは、「工業化された戦争」

第一次世界大戦後の日本軍は、水野広徳のような非戦論が広がらないようにするために、あるいは財政の制約の中で巨額の陸軍予算を確保することに支障が生じないように、「経済戦」・「物力戦」・「国力戦」を意識させにくい「総力戦」という言葉をむしろ積極的に選んだ、という可能性が高そうに思われます。

すなわち、「総力戦」は、第一次世界大戦の「本質を的確に表したキーワード」ではなく、日本陸軍のいわば「本質を隠すための政策用語」であって、その結果、「総力戦」の本質が「経済力」、とりわけ「工業化水準」にあることは、日本軍自身にも国民にも、十分には理解されずに済まされてしまったように思います。

ですから、現代の日本の研究者が、「総力戦」を第一次世界大戦の本質を示すキーワードであるとしていることは、結果として、目的達成のために本来目を向けるべき重要課題が抜け落ちても気づかず、当時の日本軍の重大な失敗を見過ごす事態を生じさせていて、明らかに不適切のように思われるのです。(当時の日本陸軍が「総力戦」をキーワードとして使用していた、という記述なら、事実の記述として少しも不適切ではありませんが、研究者自身の第一次世界大戦の認識のキーワードとして「総力戦」を選ぶのであれば不適切、という意味です。)

日本にとっての第一次世界大戦、という視点での研究であれば、第一次世界大戦のキーワードとしては、「工業化された戦争」とするほうが、当時の日本の国力水準も、政府のみならず軍にとっての本来の最重要政策課題も、どちらも明確になるので、より適切と思うのですが、いかがでしょうか。


次は、第一次世界大戦後の日本が、国家の発展モデルに関連して認識し損ねたことのもう一つとして、植民地を持つことがリスクに転じ始めたことについて、確認をしていきます。


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