西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

第一次世界大戦の経過

1914年 ③ 東部戦線
タンネンベルクとレンベルク

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
上 航行中の英艦隊
中 英軍の戦車
下 米軍の毒ガス対策
(『欧州大戦写真帳』より)
 
サイトトップ 主題と構成大戦が開戦に至った経緯

第一次大戦の経過
1914年① 西部戦線 1914年② 失敗の原因 1914年③ 東部戦線 1914年④ 海上の戦い
1915年① 西部戦線1915年 東部戦線ほか
1916年① 前半の戦線1916年② 後半の戦線1916年③ 海上の戦い1916年④ カブラの冬
1917年① 前半の西部戦線 1917年② 後半の西部戦線 1917年③ 東部戦線ほか 1917年④ 海上の戦い 1918年① 独軍の大攻勢1918年② 休戦 1918年③ ドイツの敗因
第一次大戦の総括日本が戦った第一次大戦日本が学ばなかった教訓参考図書・資料

カイゼン視点から見る日清戦争

1914年の西部戦線では、ドイツ軍がシュリーフェン計画による機動戦を開始、パリに50キロほどの地点まで進出したものの、兵站の限界に行きつき、パリ占領の目標は達成できず、エーヌ川の線で膠着状態に陥って塹壕戦が始まりました。

ここでは、同じ1914年に、もう一方の東部戦線ではどういう経過をたどっていたのか、を確認したいと思います。


開戦時の独・墺・露各軍の戦略 - 「選択と集中」をめざす

まずは、8月開戦時の、ドイツ・オーストリアとロシアの各軍の戦略から見ていきたいと思います。リデル・ハート 『第一次世界大戦』からの要約です。

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開戦時のドイツ軍の東部戦線戦略 - 東部は最小限の兵力

ドイツ軍がまずフランスを撃破し、次いで西部戦線の軍を東部戦線へ移送するに要する6週間のあいだ、ロシア軍を何とか食い止めておく必要があるという点では、ドイツ・オーストリアともに一致。問題はその具体的方法。フランスに対する決着を望んでいたドイツは、東部に残す兵力を最小限にとどめたいと念願。

オーストリア軍の戦略 - オーストリアがロシアを直接攻撃

参謀総長コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ Franz Conrad von Hötzendorf は、直接攻撃によってロシア軍機構を混乱に陥れたいとの考え。フランスとの会戦中ロシアを手一杯にさせておきたいモルトケもこの作戦に同意。オーストリア軍は3個の集団、28個師団がロシア戦線に展開、8個師団がセルビア戦線に、12個師団は状況に応じて使用。オーストリア軍の作戦は図面上では、他の軍隊より柔軟性に富んでいたが、不幸にして実力がともなわなかった。

ロシア軍には、フランスからドイツ軍攻撃の要請

ロシア軍総司令部は、まずまだドイツ軍の支援を受けていないオーストリア軍だけに対して集結し、ドイツは相手にせずにそっとしておいて、その間に全兵力の動員を完了したいと望んだ。しかしフランスは、オーストリア軍に対すると同時にドイツ軍も攻撃してくれるようロシア軍をせき立てた。ためにロシア軍は、員数の点でも編成の点でも未整備のまま、実力不相応の攻勢をかけることに同意させられた。

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開戦時に、当事者の各国はどこも、現代のビジネス用語でいえば「選択と集中」を目指したようです。ドイツ軍は出来るだけ西部戦線に集中するため、東部戦線は最小限の配置にして主にオーストリア軍に対応させる戦略。オーストリア軍は、主にロシア戦線に向かいセルビア戦線への兵力は小さいものとする、ロシア軍は基本的にオーストリア軍を相手にして、ドイツ軍は避ける。ここまでは、各国どこも健全な判断であったように思います。


どの国も、自他の能力の客観的な比較評価が出来ていなかった

最大の課題は、ドイツ軍を含め、自軍と敵軍の能力を客観的に比較評価できていなかったことにあった、と言えるように思います。孫子の根本原則、「敵を知り己を知る」が不十分であったのです。

オーストリア軍は、弱すぎました。同盟国ドイツから見ても、実力は期待を大きく下回ったのではないかと思います。オーストリアは、そもそも開戦前に、自軍の弱さを認識して、事態をあくまでオーストリア・セルビア間の局地紛争にとどめ、ロシアと戦争になる事態を回避する努力を、積極的に行うべきであったろうと思われます。

ロシア軍は、オーストリア軍との戦いでは期待通りの戦力を発揮しましたが、ドイツ軍とは実力差がありすぎました。その点で、「ドイツは相手にせずそっとしておいて」というのは、認識でも戦略としても正しかったのですが、だとすれば、そもそも開戦前に部分動員にとどめなかった判断がやはり誤っていた、と言わざるを得ないように思います。ロシアは、同盟国であるフランスからの依頼に引きずられたため、自国自身の願望通りには進まなかった、という状況は理解できますが、同盟国への義理立ても、国力の冷静な評価に基づて行われるべきであったように思われます。

ドイツ軍だけは少し状況が異なっていて、ドイツ軍は、フランス・ロシア両軍に対する自軍の強さは、かなりの精度で把握していたのではないか、という気がします。それでも戦略通りに進まず課題が生じたのは、実戦での兵站能力の検証が不足していたことにあるかと思います。自軍は十分に強いものの、兵站の実地では大きな課題がある、と適切に認識していたなら、そもそも西部戦線は国境線の防衛にとどめ、攻勢は東部戦線だけに集中する、という戦略がより妥当な選択となっていたように思われるのですが。

リデル・ハートは、この点で含蓄のある論評をしています。「軍司令官の机上作戦というものは、いったん戦場で試されると、すべてあえなく瓦解してしまうものである」、平時の訓練は、いざ現実の戦争になるとその通りにはゆかないものなので、「戦争前の準備段階で、現実への適用の必要性を予見し、調整する力を養っておかなければならない」、18世紀の多くの偉大な指揮官にはその能力があったのに、「1914年当時の指揮官には、これがほとんどできていなかった」、と書いています。残念ながら、この論評は、昭和の日本陸軍の指揮官たちにも生かされませんでした。


1914年8月、ドイツ軍はタンネンベルクで大戦果

ここから、東部戦線ではどのように戦闘が進んで行ったのか、その経過を確認していきたいと思います。まずは、東部戦線での独露の開戦とタンネンベルクの戦い the Battle of Tannenberg です。

下の地図は、現代の地図上に当時の地名を表示したものです。当時はポーランドという国が存在しておらず、現在のポーランド北部および西部は、当時はプロイセン、ポーゼン、シュレジェンとして、すべてドイツ領でした。ポーランドの南部はオーストリア領で、残りはロシア領でした。現在の国境線と当時の国境線があまりにも異なっており、当時の国境線を現在の地図上に示すことはなかなか困難なため、この点は手を抜いていますこと、ご容赦ください。

第一次世界大戦の地図 1914年の東部戦線 タンネンベルクの戦いとレンベルク会戦

タンネンベルクの戦いは、東プロイセンで行われたロシア対ドイツの戦いです。再び、リデル・ハートの著書からの要約です。

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ロシア軍の東プロイセン侵攻

ロシア軍の総司令官ニコライ皇子が、盟友フランス軍に対するドイツ軍の圧迫を軽減すべく、自国の第1、第2軍に対して、まだそれらが集結を完了するのも待たずに、東プロシアEast Prussia侵攻を命じた。ロシア軍は2倍以上の兵力を擁していたから、連繋攻撃をかけさえすれば、ドイツ軍を撃砕する可能性は十二分にあった。

8月17日、レンネンカムプ Paul Rennenkampf のロシア第1軍は東プロシアの国境を越え、19日から20日にはプリットヴィッツ Max von Prittwitz 麾下ドイツ第8軍を撃退。その日、サムソーノフ Alexander Samsonov 麾下のロシア第2軍も東プロシアの南部国境越え。

ドイツ軍には、ヒンデンブルク、ルーデンドルフ、ホフマンのトリオ

モルトケは、退却を口走ったプリットヴィッツを罷免、代わりに退役大将ヒンデンブルクPaul von Hindenburg を起用、その参謀長としてリエージュ攻撃の英雄ルーデンドルフを任命。ルーデンドルフは第8軍参謀ホフマン大佐 Max Hoffmann によって立案された計画をさらに発展させて、26~27日にまずサムソーノフ軍を集中攻撃。この会戦は、のちにタンネンベルクの戦いと名付けられた。次にヒンデンブルクは、レンネンカムプ軍を東プロシアから追い出した。

タンネンベルク戦でのロシア軍の大損失

激戦の末、ロシア軍は25万の兵員を失い、多量の軍需物資を消耗した。しかしロシア軍の東プロシア侵攻は、ドイツ側に西部戦線から2個軍団を急派するのを余儀なくさせ、マルヌ川沿いのフランス軍の立直りを可能にする一助となった。皮肉なことに、移送された軍団は到着が遅れ、タンネンベルクでは何の役にも立たなかった。

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タンネンベルクは、ドイツ軍とロシア軍との実力差が見事に表れた戦いであったようです。これだけを見れば、東部戦線はすぐにも決着しそうなのですが、そうはいきません。ロシア軍よりさらに弱いオーストリア軍がいたためです。


1914年8~9月、オーストリア国境地域でのレンベルク会戦では、
オーストリア軍がロシア軍に敗北

当時のオーストリア領は、現在のハンガリー、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴビナだけでなく、ポーランド南部、ウクライナ南西部、ルーマニア北西部なども含んでいました。一方、ポーランドの中東部、バルト3国、ベラルーシ、ウクライナの残りなどは、すべてロシア領でした。

ロシア軍とオーストリア軍は、当時両国が国境を接していたオーストリア領のガリシアGalicia、すなわち、現在のポーランド南部・ウクライナ南西部で戦闘を開始します。再び、リデル・ハートの著書の要約です。

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レンベルク会戦でのオーストリアの敗勢

オーストリア軍のポーランド攻撃は、最初にこそ進展をみたが、ロシア軍の猛攻にオーストリア軍は大敗を喫し〔8月26~30日〕、レンベルク Lemberg を通って退却。前進してくるロシア軍におびやかされ、コンラートは9月11日に総退却を命じ、月末までにほぼクラカウCracow まで落ち延びた。オーストリア軍は、兵員90万のうち約35万を失った。

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並べてみると、タンネンベルクのロシア軍対ドイツ軍ではロシア軍が敗けて25万人を失い、レンベルクのロシア軍対オーストリア軍ではオーストリア軍が敗けて35万人を失った、ということになります。オーストリア軍の弱さは明らかです。


ドイツ軍による東部戦線テコ入れ

オーストリア軍のこの弱さに、ドイツは援軍を送らざるを得なくなり、以後、ドイツ軍がイニシャティブをとってロシア軍を後退させていきます。また、リデル・ハートの著書からの要約です。

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ドイツ軍によるオーストリア軍への支援派遣

ドイツ軍はオーストリア軍を見殺しにできず、援軍を送る。東プロシアの軍勢の大半を投入して、ポーランドの南西端へと配備。この部隊は、オーストリア軍の攻撃再開とともに、共同してワルシャワ Warsaw へ進撃した。

ロシア軍の大進撃計画

ロシア軍はこの時期にちょうど兵力動員の最盛期に近づいており、兵力再編成と大反撃をかけて敵を追い返し、余勢をかってシレジア Silesia へ侵入すべく、大がかりな作戦。

ロシア軍をドイツ軍が撃退、ロシア軍は後退

これを迎え撃つべく、ドイツ軍は絶妙な策略。その基礎になったのは、ドイツ鉄道網とロシア軍の無線傍受。ロシア軍は二度と再びドイツの大地をおびやかすことはなくなった。ルーデンドルフはロシア軍を12月15日までにワルシャワ前面のブズラ=ラヴカ川Bzura-Ravka の線まで撃退。

ニコライ皇子は、ポーランドの『舌状地』 Polish ‘tongue’の末端を敵の手にわたして、ニダ川とドナエフ川沿いの冬期塹壕線に戻る決意。こうして西部と同様東部戦線においても塹壕戦による行詰り。ロシア軍は軍需品のストックを使い尽くし、貧弱な工業力では補給が困難となった。

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ロシアは、わずか数か月の戦闘で軍需品の在庫を使い果たしてしまったようですが、それには、次に確認する海上封鎖の状況も効いていたようです。ロシアの場合、地理的に見て、対ドイツ戦が始まれば海上封鎖されてしまう可能性は十分ありと判断するのが当然とも思われますので、なおさら、セルビア・オーストリアの2国間紛争だった段階で、どうして限定的動員とせず、総動員にしてしまったのか、軍のマネージメント上で重要な課題があったと言わざるを得ないように思いますが、いかがでしょうか


オーストリアにとっては肝心の対セルビア攻略は、失敗に終わる

ところで、第一次世界大戦の研究書のほとんどは、勃発の根本的な原因となったオーストリアのセルビアへの宣戦布告問題を、すっかり忘れてしまっているように思われます。宣戦布告の結果は、どうなっていたのでしょうか。以下、久保田正志 『ハプスブルク家かく戦えり』からの要約で補足します。

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1914年7月から12月に、オーストリアは3度のセルビア侵攻

7月28日にオーストリアは対セルビア宣戦布告、翌29日にオーストリア軍はベオグラードを砲撃。8月12日、オーストリア軍はドリナ川に架橋して一挙にセルビアを屠ろうとしたが、13日までに撃破されて作戦は失敗。9月、オーストリア軍はドリナ川を再度渡河、8日から17日まで攻撃を掛けたが不成功。

11月5日から30日にかけてオーストリア軍は三度目の攻勢、12月2日にはベオグラードも攻略。しかし、セルビア軍は巧みな防御戦を行いつつ、フランスから弾薬の補給を受けて持ち直し、15日にベオグラード奪還。

結局オーストリアのセルビア侵攻は失敗、セルビア側を上回る損害

結局、オーストリアはこの地域に45万人の兵力を投入したが、死者2万8千、負傷者12万、捕虜7万7千の計22万5千人の人的損害。セルビアは40万人動員して17万人の損害。二度のバルカン戦争を経験したセルビア軍は総じて精鋭で、オーストリア側がこれを過小評価したことが敗因。

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オーストリアはセルビアに戦争を仕掛けてはいけなかった、という結果を生じていました。敵戦力の過小評価は、重大な敗戦につながることの、実例の一つとなりました。そもそもオーストリアが、セルビアに対する武力発動にこだわったことは、根本的に間違っていた、と言えるように思います。


ここまで、西部・東部両戦線の陸戦の状況を見てきました。次は、1914年の海上での戦闘の状況はどうであったか、を確認し、また1914年の状況全体を総括したいと思います。


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