西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

第一次世界大戦の経過

1916年 ③ 海上の戦い
ユトランド沖海戦・潜水艦作戦

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
上 航行中の英艦隊
中 英軍の戦車
下 米軍の毒ガス対策
(『欧州大戦写真帳』より)
 
サイトトップ 主題と構成大戦が開戦に至った経緯

第一次大戦の経過
1914年① 西部戦線 1914年② 失敗の原因 1914年③ 東部戦線 1914年④ 海上の戦い
1915年① 西部戦線1915年 東部戦線ほか
1916年① 前半の戦線1916年② 後半の戦線1916年③ 海上の戦い1916年④ カブラの冬
1917年① 前半の西部戦線 1917年② 後半の西部戦線 1917年③ 東部戦線ほか 1917年④ 海上の戦い 1918年① 独軍の大攻勢1918年② 休戦 1918年③ ドイツの敗因
第一次大戦の総括日本が戦った第一次大戦日本が学ばなかった教訓参考図書・資料

カイゼン視点から見る日清戦争

ここでは、1916年の海上の戦いを確認します。この年の5月、英独両海軍による第一次世界大戦中の唯一の大海戦、ユトランド沖海戦 the Battle of Jutland が戦われました。


大海戦に至るまでの英独両海軍の状況

まずは、大海戦に至るまでの、英独両海軍の戦略と海軍力の状況についてです。リデル・ハート 『第一次世界大戦』からの要約です。

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英国海軍の戦略は制海権の維持、ドイツ海軍は機雷・魚雷で英艦隊を弱体化

戦争勃発以来の英国海軍の戦略は、制海権の維持こそドイツ海軍を打ち破るよりも大切であるという認識のうえに組み立てられた。ドイツ艦隊打破が達成できれば、連合国側の勝利を早めるのに大いに役立つが、もしも英国海軍が戦略上の優位を失うほど大きな損害をこうむれば、英国の敗北も確実になる。ドイツ海軍の狙いは、機雷と魚雷で英国艦隊を弱体化するまでは決定的な行動に出るのは避けること。ドイツ側の機雷と魚雷を考慮し、英国海軍は過度に用心深く、慎重一点張り。

艦隊の規模は英国側が強力

1916年5月には、英国艦隊は開戦当時よりもずっと強力。ドイツ艦隊の23隻に対し英国艦隊は弩級主力艦(戦艦および巡洋戦艦)37隻。大砲、ドイツ側の12インチ砲176門に対し、英国側は13.5~15インチ砲168門、12インチ砲104門。足ののろいドイツ艦隊、機動性の点で劣勢。英国艦隊は巡洋艦と駆逐艦でも優位。

ドイツの潜水艦作戦は、アメリカからの批判により適用を制限

ドイツ軍初の≪Uボート作戦≫、戦果の乏しさの点でも、またそれがドイツの大義名分に及ぼした倫理的不名誉の点でも、著しい失策。1916年4月、ウィルソン大統領の事実上の最後通牒で、ドイツは『無制限戦争』の方針を放棄。

潜水艦作戦を制限されたドイツ海軍は、一度だけのユトランド沖海戦

この武器を取り上げられたことがドイツ海軍を刺激、海軍総司令部は開戦当時からの心頼みにしていた最初の作戦を実行に移す試みを、あとにも先にも一度だけ着手してみる気に。

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イギリス・ドイツ両国とも、大艦隊を建造するのに巨額の資金を投入してきました。実際に艦隊決戦となれば、なにがしかの損害は不可避です。また、結果次第で制海権の行方が大変化してしまう可能性もあります。大艦隊への投資額が巨額すぎたがゆえに、また艦隊決戦の結果は予測しにくいものであったがゆえに、大艦隊の使い方に慎重になっていた、と見るのが妥当なようです。


1916年5月31日、ユトランド沖海戦

いよいよ英独の艦隊が対決したユトランド沖海戦です。また、リデル・ハート前掲書からの要約です。

第一次世界大戦の地図 1916年 ユトランド沖海戦

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英独両艦隊の遭遇と海戦

英国≪大艦隊 Grand Fleet≫は5月30日夕刻に出航。ドイツ≪大海艦隊 High Seas Fleet≫も5月31日早朝、英国艦隊のどれか孤立した部分を撃破すべく出航。31日午後も早くに、英国ビーティ David Beatty の巡洋戦艦隊はドイツ巡洋戦艦5隻を発見、交戦を始めて間もなく、ビーティの6隻の巡洋戦艦のうち2隻は大破して沈没。弱体となったビーティは、大海艦隊司令長官シェール Reinhard Scheer 提督麾下のドイツ大海艦隊主力に出会う。ビーティは主力艦隊司令長官ジェリコウ John Rushworth Jellicoe の勢力圏内に敵艦隊を誘い込み、ジェリコウは救援に駆けつけた。海戦は霧と夕闇のため、うやむやのうちに終わった。

ユトランド沖海戦での両海軍の戦果

英国艦隊の全損害は巡洋戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、駆逐艦8隻、これに対してドイツ側の損害は戦艦1隻、巡洋戦艦1隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦5隻。士官と水兵の損害は、英国側の戦死者6097名、捕虜として奪われた者177名に対し、ドイツ側は戦死者2545名、捕虜なし。

ユトランド沖海戦に対する評価

ひとつの戦闘としての価値は取るに足りなかった。高名な英海軍に対する未熟なドイツ海軍の恐怖心を一掃してしまった。英国海軍としては、戦わなかったほうがましだった。この海戦は連合国と故国の一般人の眼には、英国海軍の権威の失墜と映った。英国海軍の制海権の維持が、最後にはドイツの戦争継続能力を枯渇へ追い込む決め手になりはしたものの、殺戮を短縮させるという目的は遂行できなかった。

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日清戦争での黄海海戦や、日露戦争での日本海海戦と比べると、ユトランド沖海戦の結果は、英独両国の名にし負う大艦隊が戦った割には、華々しくないものとなったようです。

ユトランド沖海戦の詳細は、このリデル・ハートの著作だけでなく、『歴史群像アーカイブ 第一次世界大戦 上』にも記述があります。いずれも、読んでいただく価値は高いと思います。


ユトランド後の両国海軍

ユトランド後、イギリス・ドイツ両国は、海上の戦いをそれぞれどのように進めようとしたのでしょうか。また、リデル・ハート前掲書からの要約です。

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ユトランド沖海戦後、ドイツは再び潜水艦作戦に復帰

≪ユトランド沖海戦≫は戦術的にはドイツ側の得点とすることができても、戦略的にはドイツ側に何のプラスにもならず。英国は封鎖の手を少しもゆるめず。そこでドイツはふたたびUボート作戦、航行範囲を拡大。7月、ドイツの大型巡洋潜水艦1隻が、米国の沖合に出現して中立国の船を数隻撃沈。外洋以外では地中海が主な活動舞台に。

Uボートの幻影に、英国大艦隊は動けず

8月19日のドイツ海軍出撃の著しい特色となったUボートの“待ち伏せ戦法”(=おとり艦を使い、英国大艦隊をUボートが待ち伏せしている南の海域に誘い出す)は、ジェリコウの用心深さなどから失敗に終わったとはいえ、その心理的効果が絶大。英国≪大艦隊≫は北海の南半分からは完全に締め出された。“Uボートの幻影”は長期にわたった。英国海軍公刊戦史、「≪大艦隊≫は約100隻もの駆逐艦の護衛つきではじめて出航できた」それでいて、この大海戦以後いまに至るまで、海軍士官らは戦艦の絶対的優位性と潜水艦の無効性を言い立てている。

新たに始まったドイツ潜水艦による商船攻撃は大きな効果

新たに始まった商船に対する『隠密』Uボート攻撃、効を奏し、ひと月当りの船舶の被害が6月分の10万9000トンから漸増して、1917年1月には36万8000トン、そのうちほぼ半分は英国船。1916年9月の1週間に、駆逐艦・補助艇合計165隻が警戒する水域において、わずか3隻のUボートが、30隻もの船舶を撃沈。

英側の対策、Qシップの効果は限定的

おとり船≪Qシップ Q-ships≫、商船のように見せかけてはあるが魚雷発射管と水中爆雷に大砲を装備、Uボート撃沈11隻の戦果を挙げたとはいっても、その効果は1916年末までにほとんど消滅。Uボート、慈悲深くなればなるほど冒す危険が増大し、標的の艦種と乗員の救援についてほおかむりすればするほど、身の安全と成功が保証される。

ドイツはついに無制限潜水艦作戦の採用を決定

ドイツ海軍当局は、いまや量産体制によって格段に強化できるようになった“無制限の”Uボート作戦を復活すれば、連合国側を屈服させることができるであろうと言明。1917年2月1日、客船、貨物船を問わずいっさいの船を即座に撃沈するという“無制限”方針が宣言された。敵側にアメリカ参戦というおもりを加えることになるのは百も承知。ドイツは、アメリカのおもりが秤を狂わせる前に勝利を期した。

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華々しくない一度きりの大海戦後は、両海軍それぞれでいろいろなカイゼン策が実行されたことがわかります。ドイツ海軍は、潜水艦を使った攻撃の効果をいかに高めるか、あるいは、失敗したとはいえ艦隊と潜水艦との共同作戦などで、工夫を行い、大艦隊以外の手段で一時的にも制海権を確保しました。一方、英海軍は、潜水艦攻撃対策としてQシップを導入し、限定的ではありますが成果を得ました。


機雷・魚雷と潜水艦は明白な成果
しかし、大艦巨砲の大艦隊はコスト・パーフォーマンスが悪い

この1916年までの海上の戦いの状況から言えることは、大艦巨砲の大艦隊は、建艦・保有コストの巨額さの割に成果が上がっていないのに、機雷・魚雷・潜水艦といった、大艦隊と比べればはるかにコストの安い新兵器の方が、敵艦隊への抑止力という点でも海上封鎖の実行の点でも、成果が明白だった、ということです。

イギリスもドイツも、巨大コストをかけた大艦隊を、一か八かのリスクの高い決戦に軽々しく投入することが出来ず、まずは大艦隊を安全に投入できる条件づくりを目指しました。この考え方は合理的であると思います。しかしその結果、大艦巨砲はコスト・パーフォーマンスがきわめて悪い、という結果が生じたわけです。

一方に海上防衛力がほとんどなかったなら、もう一方は艦隊を使って敵国の沿岸部への攻撃を行っていた可能性が高かったでしょう。双方とも、自国の大艦隊の存在が相手側大艦隊による攻撃を控えさせたわけですから、艦隊投資が全く無駄であった、というわけではありません。しかしカイゼン視点からは、投資効率、という課題が見えてきます。


「海軍へのもっと効率の良い投資」を日本海軍は学ばなかった

上述の事実からは、第一次世界大戦でのドイツ艦隊は、規模がイギリスより明らかに劣ってたのにかかわらず、機雷・魚雷・潜水艦との組み合わせによって、イギリス大艦隊に対する抑止力として十分に機能していた、と言えるように思います。また、潜水艦の海上封鎖力の高さが実証されました。

機雷・魚雷・潜水艦は、もともと大艦対策としてつくりだされた新兵器であり、改良が重ねられて、その目的を果たせる性能が得られるよう進化してきました。したがって機雷・魚雷・潜水艦が大艦巨砲の行動を抑止する効果を持ったのは当然であった、とも言えます。

機雷・魚雷・潜水艦の効果は第一次世界大戦で初めて実証されたわけなので、第一次世界大戦前のイギリス・ドイツの建艦競争は避けられなかったかもしれませんが、少なくとも第一次世界大戦後については、大艦巨砲の建艦競争は不要で、機雷・魚雷・潜水艦との効果的な組み合わせがあれば、大艦巨砲への投資規模を抑えても、制海力は十分に確保できるようになった、と言えそうです。

ところが、第一次世界大戦後も、日本を含む各国の海軍は大艦巨砲にこだわってしまいました。この点は、後に詳しく検討したいと思います。(→ 「日本が学ばなかった教訓③ 艦隊決戦より海上封鎖」


ここまで、1916年の大戦の経緯をみてきました。両陣営とも、陸上でも海上でも決定的な戦果は得られず、膠着状況が継続していた、と言えるようです。

膠着状態が2年以上も続いた結果として、結局成功はしなかったものの、この時点で講和への動きが出てきました。またドイツでは、経済封鎖の影響が深刻化して餓死者まで発生する状況になってきていました。次は、この講和の動きと、ドイツについての経済封鎖の影響を確認したいと思います。


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