西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
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(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

第一次世界大戦の参考図書・資料

加藤高明と
対華21ヵ条要求

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
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(『欧州大戦写真帳』より)
 
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カイゼン視点から見る日清戦争


第一次世界大戦期に至る日本の政治・経済の状況

第一次世界大戦勃発時の大隈内閣で副総理・外相であった加藤高明は、日本の参戦に向けて積極的に動いただけではなく、青島攻略戦後には悪名高き対華21ヵ条要求を行い、対中国だけでなく対米外交でも大失策となりました。

加藤高明、および「対華21ヵ条要求」についての図書・論文には、以下があります。ここに挙げたもののほとんどは、他に注記がない限り、「日本が戦った第一次世界大戦 D 対華21ヵ条要求」のページで、引用等を行っています。


櫻井良樹 『加藤高明 − 主義主張を枉ぐるな』
ミネルヴァ書房 2013

櫻井良樹 加藤高明 表紙

「ミネルヴァ日本評伝選」の1冊で、加藤高明の評伝です。

加藤高明の伝記としては、没後三周忌に合わせて出版されたという、伊藤正徳編 『加藤高明』 加藤伯伝記編纂委員会 1929 (国立国会図書館デジタルコレクションでインターネット公開)があります。しかし不勉強で申し訳ありませんが、筆者は読んでいません。本書に頼りました。

本書の冒頭(「はじめに」)、国家運営を担当するものにとって、外交的知識と財政的知識は欠かせないが、元老や大隈重信を除いて、局長レベル以上の外務官僚と大蔵官僚の経歴を持ち首相となった人物は、加藤高明を除いていない、という指摘があります。

言われてみると、加藤高明は確かに「稀有の存在」であった、と言えることはわかります。

著者は、加藤高明の生涯にの謎の一つとして、大隈外相秘書官になりながら、大隈とそりの合わなかった陸奥宗光に引き立てられ、伊藤博文内閣に入閣して政友会系の政治家と理解されながらも山県系の桂太郎の立件同志会に入る、といった政治的に振れ幅の大きい行動を指摘しています。

これは、もともと国際協調主義の外交官であった加藤が、第一次世界大戦の勃発時には、大隈内閣の副総理兼外相として、開戦外交を積極的に主導し、さらには対華21ヵ条要求まで行ってしまったことと、無関係ではなさそうに思われます。

しかし、本書を読む限り、日清戦争時には列強からの干渉を懸念して過大要求を行わないように主張した人物が、外交も財政もわかっていたはずの「稀有の存在」が、なぜ対華21ヵ条要求を行ってしまったのか、謎は解けなかった、という印象を持ちました。

著者が、これだけ主義主張を変えている人物の評伝に、「主義主張を枉ぐるな」という副題をつけている意味は、正直なところ理解できませんでした。しかし、本書の内容は、加藤高明の評伝として十分な価値があり、対華21ヵ条要求の背景を追及するためには必読書の1冊である、と思われます。


長岡新次郎 「対華二十一ヶ条要求条項の決定とその背景」
(日本歴史学会 『日本歴史』 144号 1960)

ここからは、対華21ヵ条要求に関する論文を、原則として論文の発表時期の順序で、挙げていきます。対華21ヵ条研究については、堀川武夫 『極東国際政治史序説 − 二十一ヵ条要求の研究』 (有斐閣 1958)という研究書もありますが、誠に恐縮ながら、筆者はこれを読んでいません。

まずは、1960年の長岡論文です。論文名は「決定とその背景」となっていますが、本論文の中心は、むしろ第一次世界大戦勃発直後の1914年8月以降翌年1月までの、加藤外相と中国駐在の日置公使との間の、対中交渉の開始時期、中国側への譲歩条件、交渉難航の見通し等についてのやり取りにあります。

本ウェブサイトの本文中にも一部要約引用を行いましたが、本論文は、外務省の外交文書により、下記を明らかにしています。

  • 8月の日置公使の早期交渉開始の提言に対し、加藤外相が引き延ばし
  • 青島攻略のための日本軍の山東半島上陸後は、掠奪などの日本軍の不法行為や山東鉄道占領により、中国側の対日感情が悪化
  • 日置公使は12月の意見書中で、膠州湾の還付や日本の革命党員の取り締まりなど5項目の引誘条件と2項目の威圧条件でも、対中交渉は難航との予想
  • 対華21ヵ条要求原案の訓令を受け取った日置と北京公使館は、原案反対の意見を外務省に表明するも、加藤と小池は訓令を修正せず

すなわち、交渉の実務担当者である日置公使からの、決着させやすい時期や提案内容への提言や交渉の難航を予想した要求内容への強い反対などを無視して、加藤が交渉時期を引き延ばした上、対華21ヵ条原案にこだわったことを明らかにしています。この部分は、本論文の価値が極めて高いところであると思います。

ただし、なぜ21ヵ条要求が膨れ上がってしまったのかについては、伝記『加藤高明』を引く程度で、追及されてはいません。


山本四郎 「参戦・二一ヵ条要求と陸軍」
(『史林』 7巻3号 1974)

本論文は、@参戦は加藤外相の主導の下になされたと考えられていたが、かならずしもそうとはいえないこと、A21ヵ条要求のなかに陸軍側の要求がもられているとされていたが、それはいかにして形成されたか、の2点の究明が目的とされています。

第1点の参戦決定の主導については、望月小太郎メモに加藤が陸海両相におされていたとあることや、原敬日記などの記述から、かならずしも加藤の果断・独壇場とは言えない、としていますが、いわば関係者のメモにのみ基づいた推論であり、他論文での外交文書に基づいた判断の方が妥当のような気がします。

第2点の21ヵ条要求形成と陸軍の要求の関係についてですが、本論文の最大の価値は、本ウェブサイトの本文でも要約引用しました通り、1914年8月段階では「陸軍の主眼は、この頃は満蒙一本」であったことを明らかにしている点であると思います。

その後日本は山東鉄道を占領し、あるいは満蒙以外の要求を含む対華21ヵ条要求を決定するなど、8月段階では存在していなかった満蒙以外の要求が膨張しましたが、本論文には、その経緯は明らかにされていません。対華21ヵ条の問題点は、要求を満蒙一本に絞らなかったことにある、と言えるように思いますが、その最重要課題について本論文の追求は、不十分という印象があります。


野村乙二朗 『近代日本政治外交史の研究
− 日露戦後から第一次東方会議まで』 刀水書房 1982

本書は、近代外交史の研究者である著者が発表した論文を収録したものであり、内容は下記となっています。

  1. 辛亥革命期における内田外交
  2. 中華民国承認問題
  3. 第一次大戦参戦外交と加藤高明
  4. 対華二十一ヵ条問題
  5. 三宅坂と霞ヶ関
  6. ジェーコブ・シフと高橋是清
  7. 原敬と大隈重信
  8. コンセンサスの代償
  9. 原敬の対米観と対英観
  10. 原敬の中国観
  11. 吉野作造論
  12. 北一輝の 外交思想批判

上記のうち、「3. 第一次大戦参戦外交と加藤高明」は、「第一次大戦参戦外交と加藤外相の責任」のタイトルで発表された論文(政治経済史学会 『政治経済史学』 100号 1973)が収録されたもの。第一次世界大戦の勃発から、8月23日の対独宣戦布告直前までの、参戦決定過程が、詳細に記述されています。基本は外交文書に依っていますが、日本国内での大戦勃発を伝える新聞報道や、憲政会内部の対立、陸軍の態度なども含まれており、参戦外交の事実を知るためには、上掲の山本論文よりもはるかに価値が高く、一読の価値があると思います。ただし、本ウェブサイトでの記述は、他書に頼ったため、この論文からの引用は行っていません。

次の「4. 対華二十一ヵ条問題」も、 やはり「対華二十一ヶ条問題と加藤高明 − 特に第五号の理解について」のタイトルで発表された論文(『政治経済史学』 131〜135号 1977)が収録されたものです。「特に第五号の理解について」という副題がついていますが、むしろ「対華21ヵ条要求の取りまとめ〜交渉〜決着」の過程を詳述した論文、と理解するのが適切かと思います。

本論文では、著者はまずそれまでの研究史を整理したうえで、8月末の日置公使からの交渉開始提案を退けた理由として、加藤が対華交渉を総選挙とかみ合わせたいと考えていた、と推定します。この推定は、非常に魅力的な推定なのですが、根拠が明確にはされていない点が少し残念です。

著者は次に、対華要求とりまとめを行ったのは、外務省政務局長の小池張造であったこと、提出された意見書中で採用されたのは軍人のもの、特に北京の町田少将からのものであったことを指摘しています。

実際の交渉の開始後、著者はまず、日本側の駐在武官には脈のありそうな態度をとり、日置公使には厳しい態度を示したこと、またアメリカに日本の要求内容を早速伝えたことなど、袁世凱の交渉術の巧みさを指摘しています。

ここからが本論文で最も価値があると思われる部分で、外交文書により、日中間の交渉の経過が詳細に記述されるとともに、アメリカやイギリスの反応も言及されています。最終的に、第五号要求を落として最後通牒を発することになった経緯も、詳述されています。本ウェブサイトでも、この部分から要約引用を行っています。

結論として著者は、第五号の要求に加藤が最後までこだわった理由として、「当時の異常に加熱した国民与論という雰囲気」を挙げ、「政府が本気に対外硬の音頭取りをした場合、それに抵抗することは容易なことではない」としています。これも魅力的な推定なのですが、やはり根拠が明白ではないと感じられる点が残念です。

推定の根拠が明白ではないという点はありますが、本論文は、「対華21ヵ条要求の取りまとめ〜交渉〜決着」の過程については、最も詳細に記述された論文であり、その点で非常に価値が高い論文と思われます。


北岡伸一 「二十一ヶ条再考 − 日米外交の相互作用」
(近代日本研究会 『年報 近代日本研究-7 日本外交の危機認識』
山川出版社 1985)

本ウェブサイトでは、本論文が指摘している対華21ヵ条要求の結果に対する一般的評価についてのみ引用しましたが、本論文の主題は、「日米関係を手掛かりとする二十一ヵ条研究であると同時に、二十一ヵ条をめぐる日米関係の研究」です。

著者はまず、二十一ヵ条要求の不可解さの最大原因であった第五号について、内容不明確、意図に比し過大な表現、文言上の工夫もない、という点で不可解であることを再確認した上で、第五号はもともと「撤回ないし大幅に譲歩するために用意された取引材料」であったという仮説から出発し、「予期せざる事情の出現により、方針が転換」されて、元老の介入によって最終段階で削除されるまで撤回されなかった、その理由は「アメリカがこの交渉に対して示した予想外の反応」であったと推定します。

そして、二十一ヵ条の「一見杜撰と見える点は、実は巧妙な戦術的判断の結果」であって、「日本がこれまで西欧から学んできた古典的帝国主義外交の秘密を尽くした外交」であったが、「古典外交の常識から逸脱したアメリカの外交にはよく対処しえなかった」と結論しています。

本論文には、新しい事実の発見や従来見過ごされてきた事実の指摘等はなく、視点を大きく変えたわけでもなく、ただこれまで不可解とされてきたことについて、従来から知られている事実の新解釈を行うことで、回答を出そうとした試み、と言えるように思います。

しかし、著者の「一見杜撰と見える点は、実は巧妙な戦術的判断の結果」という評価は、交渉術の実務的な観点から見れば納得しがたいものであり、著者の推定と結論には説得力が乏しいように思われます。筆者にはビジネス交渉を行ってきた経験があり、交渉術というスキルが現に存在していることを知っていますので、21ヵ条要求のような交渉事については、どうしても交渉術という観点から評価を行ってしまいます。


島田洋一 「対華二十一ヵ条要求 − 加藤高明の外交指導」
(政治経済史学会 『政治経済史学』 第259・260号 1987)

本論文は、加藤高明と対華21ヵ条を論じた全ての書籍・論文の中で、最も水準の高いもの、と言えるように思います。

内容は4章に分かれ、第1章では「二十一ヵ条要求」事件の論点整理、第2章は上掲の北岡伸一論文への批判、第3章・第4章が論文の中心部分で加藤高明の外交指導に対する著者の論評、うち中国および列国との関係については第3章で、アメリカとの関係については第4章で論じられています。末尾に、日本側原案や略年表も付されています。

第1章では、「無理な要求を出したあげく結局比較的ましな一部の項目しか通せなかったのだが、あたかも全面的に押し付けたかの如き印象を振り撒いてしまったという点で拙劣極まりない外交」であった「二十一ヵ条要求」について、その各要求事項とその交渉に関する加藤外相の外交指導評価上の論点が、具体的に指摘されています。この点は、このウェブサイト本文中に要約引用しました。

第2章では著者は、「北岡氏の論述は、徹頭徹尾史料の曲解と論理的誤魔化しとに貫かれたものであり、何とも空虚な砂上の楼閣に過ぎない」と評して、北岡論文が新解釈を行った史料および実際の交渉経過の事実に立ち戻って、それを改めて検討することで、北岡論文の新解釈の無理を指摘しています。

第3章では、第五号(希望条項)について、列国のみならず日本の外交官にも存在を伏せた理由とそれが交渉に及ぼした影響、実際の交渉過程での交渉経過が論じられています。交渉術という観点から見た、実際の交渉経過上での加藤の判断の甘さ・拙さの指摘は、非常に説得力があります。

第4章では、「二十一ヵ条」は、「アメリカの所謂対日不承認政策の始まりを画す事件でもあった」という点について、「アメリカの政策転換」を指摘するだけの「通説」に対し、著者は、「アメリカの態度硬化を殊更促進するような大きな手落ちが、加藤の外交指導の内に存在した」ことを論じています。その具体的な指摘については、このウェブサイト本文中に要約引用しました。

結論として著者は、対華21ヵ条要求での加藤の失敗について、発端は「二十一項目も並べ立てたこと」にあり、「ここにまず、大きな無理があった」と指摘しています。交渉術という観点から見ても、きわめて妥当な指摘であると思います。

著者は加藤について、「徹底的に項目を絞り込むだけの”蛮勇”は無かった」と評し、さらに「当初の交渉方針に大きな判断の誤りがあり、思い切った善後策を講ずる必要」が明らかになった後も、「第五号の討議に固執することで、益々傷口を広げる結果になった」ことも含め、加藤の特徴として「官僚的」で、「政治的決断に欠け、局部的かつ中途半端」としているほか、「この時の加藤には、何かに魅入られた、或は魔が差した、とでも表現する他ない、普段なら考えられないような過誤・手抜かりが多数見られる」という指摘も行っています。

著者によるこうした評価が妥当であるかについては、筆者としては、@まずは加藤が、大隈内閣の副総理格という政治的な立場を優先した結果、外交官時代以来の国際協調論者としての自身の本来の判断とは全く対立する方針を意図的に採用したという無理があり、そのうえ、A超エリートであったため、社交は得意でも実務交渉には現場経験が乏しかった加藤が、重大交渉の指揮を行う立場となって、その経験不足を露呈した、という複合事情による、という見方をする方がしっくりくるように思えます。

本論文の全体としては、上述の通り、加藤高明の対華21ヵ条要求に関して最も水準の高い論文であり、読む価値が非常に高い、と言えるように思います。

本論文は、単行本に再録されてはいないため、筆者は雑誌のバックナンバーを所蔵している図書館で読みましたが、著者がご自身のブログで本論文を公開されていることを知りました。図書館に行かなくても読めます。


奈良岡聰智 『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか
− 第一次世界大戦と日中対立の原点』 名古屋大学出版会 2015

「対華21ヵ条要求」というテーマだけで1冊の研究書となっているものは、極めて数が少なく、おそらくは1958年の堀川武夫 『極東国際政治史序説 − 二十一ヵ条要求の研究』 以来、本書は60年以上を経て現れた2冊目、ということになるかと思います。

本書は、「日露戦後の日本外交の変化を考える上で、第一次世界大戦こそが決定的に重要な意味を持つと考えている」著者が、「日中対立の原点として位置づけられる二十一ヵ条要求をめぐる外交交渉の実態を解明したもの」であり、「二十一ヵ条要求をめぐる政治指導や世論を分析することで、当時の日本が抱えていた問題点を浮き彫りにし、明治から昭和に向かう転換の兆しを明らかにすること」がねらいであったとしています(本書「あとがき」)。

本書は、著者が2009〜2014年に発表した、加藤高明および対華21ヵ条要求に関する一連の論文が基になっており、収録にあたりそれらが一部再構成されているようです。内容は、下記のようになっています。

序章 満州問題 − 二十一ヵ条要求の起源
第1章 二十一ヵ条要求提出の背景
第2章 参戦外交再考
第3章 参戦をめぐる世論と国内政治
第4章 二十一ヵ条要求の策定過程
第5章 二十一ヵ条要求をめぐる外交交渉
第6章 二十一ヵ条要求と国内政治
第7章 二十一ヵ条要求と世論
終章 二十一ヵ条要求とは何だったのか

付録として、二十一ヵ条要求、要求の変遷一覧表、関係年表、および加藤高明の講演が付けられており、巻末には文献一覧があります。

著者は、序章の中で、21ヵ条要求の根底には満州利権の確保問題があったことをまず確認、次に21ヵ条要求の研究史を整理した上で、@加藤外相の外交指導、Aイギリスが交渉に与えた影響、B日本の世論の動向、の3つの視点から分析を行っていることを明らかにしています。

@加藤外相の外交指導については、「大陸への進出には積極的な陸軍や対外硬派に一貫して批判的な立場を取ってきた」加藤が、「なぜ二十一ヵ条のような強圧な要求を中国に出したのか」という論点からも追及を行っている点は、先行研究には漏れていた論点であり、価値があると思います。

ただし、本書出版後の現在も、対華21ヵ条研究については、上掲の長岡新次郎・野村乙二朗・島田洋一の3氏の論文の価値が最も高い、という点は変わらないように感じています。本書では、3氏の論文の内容が詳細に繰り返されているわけではなく、また先行研究と比し、重要事実として新たに加えられたものは少ないように思われるためです。なお、本書では、研究史の整理中に、野村乙二朗の先行研究に全く言及がなく、文献一覧からも掲載が漏れている点は、不思議に思います。

Aの21ヵ条とイギリスという点では、イギリスのメディアの対日態度の変遷、21ヵ条外交交渉におけるイギリスのジャーナリストの役割、イギリスの報道活動から浮かび上がる袁世凱政権の能動的態度、といった論点が記述されています。また、Bの日本の世論の動向という点では、当時大隈首相が主宰していた雑誌『新日本』や、経済雑誌『東京経済雑誌』・『実業之日本』、個人の日記などについて、分析を行っています。

本書は、@については上掲の3氏の論文にはなかった新たな論点があり、ABについては先行研究にはない視点からの記述であるという点で、価値があると思います。

本書からは、「日本が戦った第一次世界大戦 B 日本の参戦決定の経緯」のページでも、引用を行っています。


栗原健 編著
『対満蒙政策史の一面 − 日露戦後より大正期にいたる』
原書房 1966

本書は、対華21ヵ条要求そのものは扱っておらず、本ウェブサイト中でも引用等は行っておりませんが、21ヵ条要求の前後の時期の日本の対中国政策を記述しており、21ヵ条要求の背景を理解するには非常に役立った1冊として、ここに挙げておきたいと思います。

特に役立ったのは、本書中の下記の3章です。

第4章 阿部外務省政務局長暗殺事件と対中国(満蒙)問題 (栗原健)
第5章 南満東蒙条約の成立前後 (臼井勝美)
第6章 第一次・第二次満蒙独立運動と小池外務省政務局長の辞職 (栗原健)

第一次世界大戦勃発の前年、中国で日本陸軍と中国軍との摩擦事件や日本人殺害掠奪事件が発生、当時の山本権兵衛内閣は、西園寺内閣以来の国際協調方針を取っていて、強硬方針は日本の国益をむしろ阻害するとの見方をしていたが、対外硬派からは激しい政府批判が起こり、外務省の政務局長まで暗殺される事件が発生したこと、大隈内閣になると、対華21ヵ条要求をおこなっただけでなく、1916年3月には袁世凱排斥方針にまで転換、のちにこれが政界の大問題になり、大隈内閣倒壊の資となったこと、などが記述されています。

大隈内閣の副総理兼外相として、加藤高明がそれに妥協した結果として大失策を冒すことになった、当時の対外硬の主張や活動を理解する上では、非常に価値が高い1冊であると思います。



次は、第一次世界大戦での日本の戦いに関するもののうち、概説書および青島攻略戦を主題としているものについてです。


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