西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

日本が学ばなかった大戦の教訓

A 帝国主義の限界化 −
植民地の保有はリスク化

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
上 航行中の英艦隊
中 英軍の戦車
下 米軍の毒ガス対策
(『欧州大戦写真帳』より)
 
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参考図書・資料

カイゼン視点から見る日清戦争

日清戦争以来の日本の、「戦争ビジネスモデル」が成り立つという誤解の重要な構成要素として、植民地(あるいは海外領土)の獲得・拡大こそが国勢を示す、という認識があったように思われます。日本は、第一次世界大戦期にも、南洋諸島の委任統治を獲得し、また対華21ヵ条要求を行って満州利権の継続拡大を確保しました。

しかし、こうした結果の反面として、第一次世界大戦後の日本は、「植民地を持つことがリスクに転じ始めた」ことを認識し損ねた、と言えるように思います。ここでは、第一次世界大戦の結果として顕在化してきた植民地保有のリスクについて、当時の日本ではどのように認識されていたのかを確認していきます。


第一次世界大戦では、「植民地の再分割」と「民族自決」が混在

確かに、第一次世界大戦には、ドイツやトルコが持っていた領土・植民地の再分割、という側面がありました。旧ドイツ領の植民地は、イギリスとその自治領、フランス、そして日本によって分割されました。旧トルコ領の中東は、イギリスとフランスによって分割されました。(「第一次世界大戦の総括 D各国が得たもの・失ったもの」を参照ください。)

この動きだけに注目すると、相変わらず「大国は植民地を持つ」ものであり、「植民地の多さ・勢力圏の大きさが大国の実力の証明」である、だから大国を目指す日本も植民地・勢力圏を拡張できるように努力するのが当たり前である、ということになります。

ところが、第一次世界大戦では、「民族自決」という、それに真っ向から対立する動きも起こっていました。これには、二つの少し性格の異なる動きがありました。

一つは、主にオーストリア=ハンガリーの旧領での民族自決・分離独立の動きであり、結果として多数の新興国が誕生しました。シベリア出兵の名目となった「チェコスロヴァキア軍団」にしても、民族独立の国際的認知を得ることを目的に、ロシア領内のチェコ人・スロヴァキア人がドイツ・オーストリア軍と戦うために結成したものであり、大戦の結果としてチェコスロヴァキアは独立できたわけですから、その目的は果たしたと言えます。(「日本が戦った第一次世界大戦 G シベリア出兵 (8)」を参照ください。)

ただし、こうした新興国の誕生は、民族自決の動きを反映したものではあっても、オーストリア=ハンガリーを敗北させるための戦略の一部にもなっていたので、純粋な民族自決とは少し異なる性格も混じっていた、と言えるかもしれません。

しかし、もう一方のイギリス領植民地で発生した動きは、大戦での戦勝国の戦略とは無関係でした。イギリス領またはイギリスの保護領であった地域の一部で、本国イギリスとの深刻な対立が発生し、植民地が宗主国に抵抗して独立することをイギリスが抑えれられなくなった、という事態が生じたのです。植民地を持つことはリスクにもなる、という新しい傾向が表面化してきたわけであり、日本はこの事実から学ぶことができたはずでした。


植民地リスクの実例=アイルランドとエジプトのイギリスからの独立

アイルランドとエジプトの独立は、植民地を持つことが、植民地と本国間に重大な軍事的抗争を招くリスクとなることを示しました。第一次世界大戦後の、両国のイギリスからの独立についてです。

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1922年 アイルランド自由国の成立

イギリスは19世紀初頭にアイルランドを併合。しかし、新教のイギリスとカトリックのアイルランドという重大な相違。1905年には、アイルランド独立を掲げるシン・フェイン党が発足。

1914年にアイルランド自治法が成立するが、第一次世界大戦を理由に保留となる。1916年、独立派はダブリン蜂起を行うも鎮圧される。1919〜21年、アイルランド独立戦争。1922年アイルランド自由国が成立、イギリスの自治領となる。1931年にはイギリスと対等な主権国家となる。

1922年 エジプトの独立

日本よりはるかに早く、19世紀初頭から近代化を開始したエジプト。しかしスエズ運河の建設がエジプトの財政破綻を招き、1876年には英仏による二元管理で実質的には保護国状態に。1883〜1907年の間は、イギリスの総領事兼代表であったクローマー卿が実質的に統治して財政再建を行ったが、実質的な保護国状態は継続したまま。

1914年第一次世界大戦が勃発すると、イギリスはエジプトを保護領に。しかし1919年、エジプト革命、カイロは一時完全に孤立。その後もイギリスによるエジプト統治は再建できず、1922年、イギリス側がエジプトの保護領制度の廃止と独立を一方的に宣言、二国間条約の締結で英軍の駐留の継続を確保。

(エジプトの独立については、「カイゼン視点から見る日清戦争 帝国主義の時代エジプトの保護国化」を参照ください。)

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アイルランドもエジプトも、第一次世界大戦終結の翌年である1919年に独立戦争や革命が発生、1922年に自治または独立を達成しています。

アイルランドやエジプトの事例から読み取れることとして、まずは、民度が高い地域では独立運動が起きやすいという基本条件があります。次に、対策として宗主国側が武力抑圧策をとると、相互の血が流れるだけで、機能的な統治の回復は結局は困難となる可能性が高く、さらに対立を続ければ結局何もかも失う可能性が高くなりそう、ということです。

要するに、植民地の保持にこだわると、大きな軍事費用がかかるのに効果が乏しく、結局は植民地も権益も失うという、期待に反する結果を招きかねいことが示されています。反対に、早期に独立を認めて取引を行えば、比較的低コストで、妥協的に軍隊の駐留など権益の一部が維持できる可能性も示されました。

すなわち、とくに民度が相対的に高い地域では、植民地としての保持継続策はかえってリスクとなり、処理を誤れば植民地に投入した資本の大部分が損失化しかねないことが、事実として示されたと言えます。


日本自身が経験した植民地リスク − 三・一運動と五・四運動

1919(大正8)年に、植民地保有のリスクが顕在化したのは、アイルランドとエジプトだけではありませんでした。日本がらみでも、この年の3月1日に朝鮮で三・一運動が発生、5月4日には中国で五・四運動が発生しました。

朝鮮の三・一運動は、まさしく日本の植民地支配からの独立運動であった一方、中国の五・四運動は、反日行動と結びついていたものの、直接的には親日に過ぎた中国政府の要人を強く批判する運動であり、両者の直接的な目的には相違がありました。

しかし、植民地や勢力圏の保持・拡大への抵抗運動であった点では共通しており、この二つの運動により、当時の日本自身も、被圧迫民族側からの強い反発という植民地リスクをを経験した、といえるように思います。以下に、この二つの事件の内容を、確認します。


三・一運動の直接の契機は、日本による併合後の「武断政治」

日本は、1894(明治27)〜95(明治28)年の日清戦争の戦勝により、清国から台湾を得ました。その10年後、1904(明治37)〜05(明治38)年の日露戦争戦勝後に、朝鮮(当時は大韓帝国)を日本の保護国とし、さらに5年後の1910(明治43)年、朝鮮を併合しました。

開発の歴史が比較的新しく、オランダ占拠期もあった台湾とは異なり、朝鮮は古くからの独立国でした。しかも、高句麗・百済・新羅の三国時代以来、王朝は交替したものの、「ユーラシア大陸において珍しくも、二千年間異民族支配王朝のない歴史を歩んできた」(姜在彦 『日本による朝鮮支配の40年』)という国でした。

一方、日本が朝鮮を保護国化する過程はきわめて「威迫」的・「強圧」的で、併合に至っては「クーデターのようなやり方」であったことは、当時の日本側の報告書や記録、関係者の回想記からも明らかでした(山辺健太郎 『日韓併合小史』)。したがって、日本による朝鮮の植民地化に対し、二千年の独立国民であった朝鮮人からの反発が非常に強かったことは当然でしょう。

加えて、初代朝鮮総督の寺内正毅と2代目の長谷川好道の、二人の陸軍大将による「武断政治」が、朝鮮人の反発心をさらに高めたようです。以下は、姜在彦 『朝鮮近代史』および 同著者の『日本による朝鮮支配の40年』から、「武断政治」期の朝鮮の状況についての要約です。

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朝鮮総督直属の憲兵警察制度

武断政治の特徴の第一、日本国内とは異なる警察制度。朝鮮では軍事警察と普通警察を一本化した憲兵警察、総督直属で、職権は広範、ほとんど朝鮮人民の生殺与奪権を握っていた。また、官吏から教員にいたるまで、制服帯剣。

言論・出版・結社は禁止、私立学校にも介入

李朝末期には多数の新聞・雑誌。これらを一切廃刊にして、『京城新報』(日本語版)、『毎日申報』(朝鮮語版)、『ソウル・プレス』(英語版)の3つ、すべて総督府の御用新聞。当時、朝鮮人が集まりうるところは、宗教的集会と学校、市日のみ。

1911年、大学教育を禁止、旧韓国政府の認可をうけたミッション系の大学科は廃止。同年の私立学校令、権力による監督と介入を強化、「併合」前に2250校の私立校(認可校)は1918年には778校に。1919年の私立学校規則、官公立諸学校規則で規定されている以外の教科過程を禁止、教科用図書も、総督府編纂のもの、総督検定を経たもののみ。

最大の経済政策、土地調査事業

土地の所有権を、その土地を耕している農民にではなく、その土地との縁故関係を文書で申告した者に認めた。農民の無知・情報不足の結果、全農家の3.3%が全耕地面積の50.4%を所有、全農家の37.6%が小作農、同39.3%が自小作農、同19.6%が自作農。小作農は窮乏化、流民を生み出す原因に。また、無主公山は国有化され入会権も否定。

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朝鮮総督府による統治については、三・一運動以前より、日本人からも批判されていました。当時はまだジャーナリストであった中野正剛は、寺内総督時代について、「余は総督政治に就て、満腹の大不平を有する者なり」と表明、「寺内伯は明石将軍〔=憲兵司令官〕を、明石将軍は警務部長を監督し、警務部長は憲兵を監督し、巡査を監督し、憲兵巡査は人民の経済、風教、言論等総てを監督し、傍ら地方官吏の私行までも監督し、斯くて社会に一弊事の行わるるなきを期せんとするが如し」の状況であり、「一般人民の迷惑を被り、怨嗟して止まざる所は、大概是れ監督政治の失敗」と指摘しています(中野正剛 『我が観たる満鮮』)。

朝鮮総督という朝鮮全体の行政トップに、民政の知識経験のない軍人を充てたことが、そもそも適切ではなかったことは明らかです。建前上で軍人をトップにせざるを得ないとしても、ナンバー2には、十分な民政経験のある人物を据えて大きな権限を与え、民政の領域には素人の軍人は滅多に口を出さない体制にするのが適切であったと思います。

併合自体が、二千年の独立民族の自尊心を踏みつけと言わざるを得ないのですから、カイゼン視点から見ると、その状況での対策として適切なのは、抑圧ではなく懐柔でしょう。日本による統治は、心情的には気に食わないものの、損得計算をすると朝鮮王朝による統治よりもメリットが明らかに大きい、と感じてもらえる政策の実施が必要であったと思います。

ところが、寺内・長谷川の武断政治は、言論の自由や学校教育などについて、併合前の既得権を奪い、そのうえ憲兵警察による監視を行ったのですから、不満が膨張して当然と言えそうです。誠に下手なやり方であったと思います。

なお、土地調査事業そのものは、近代的な財政基盤の確立のために必須の事業であったと思いますが、それが結局社会不安を高める方向に実施されたことは、やり方に研究・工夫が足りなかったように思われます。やはり民政専門家の関与不足でしょうか。


首謀者の構想をはるかに超えて拡大した三・一独立運動

では三・一運動とは、具体的にどのような運動であったのか、その詳細について、やはり姜在彦 『朝鮮近代史』および 同著者の『日本による朝鮮支配の40年』からの要約です。

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1919(大正8)年2月、運動の発端は東京の留学生、高宗の急死が契機

三・一運動を〔朝鮮〕国内で点火させる先導的役割を果たしたのは、東京留学生。1919年2月8日、神田の朝鮮YMCA会館に集まった約600名の留学生は、独立宣言書を採択、各国大公使館、日本政府各大臣・両院議長、朝鮮総督府、各新聞・雑誌社、諸学者に発送。独立宣言ののち示威をはじめようとしたが、警察と衝突、60余名が逮捕。多くの学生が国内の運動に参加するために帰国。

国内では1月21日に、〔日本が朝鮮を保護国に置いたときの朝鮮皇帝で、その後日本により退位させられていた〕高宗が急死、日本による毒殺説がひろまった。3月3日の国葬日に向けて国内の独立運動は活発化。しかし王権復古のための復辟運動ではなかった。

3月1日の集会とデモ、最初は非暴力的抵抗の運動

国内に大きな教団組織をもっていた天道教とキリスト教は連合、仏教代表も加え、独立宣言書に署名、学生側も合流、2月27日に印刷、翌日から配布。

独立運動の決起は3月1日午後2時。非暴力的抵抗を主張した署名者29名は、独立宣言書朗読ののち、総督府に電話して逮捕された。ソウル鐘路のパゴダ公園に集まった数千の群衆は、3隊に別れ、夜の11時頃まで独立万歳を高唱しながらソウル市内を示威行進。同日に、宣川、平壌、元山、鎮南浦などでも集会と示威。

運動が全国に波及するとともに多数の死傷者、日本は鎮圧のため軍と憲兵を増派

三・一運動は平和的示威運動にとどまれず。運動が地方に波及するにつれて憲兵、警察、軍隊まで出動して、各地で死傷者が続出。群衆に発砲も。3月9日までは天道教・キリスト教組織の強い朝鮮北部に集中、3月10日よりしだいに南部朝鮮に波及。日本軍警による流血の弾圧にたいして運動も次第に暴力化、4月1日から10日までの時期に最高潮に。

日本本国では原首相が田中陸相と協議、4月4日の閣議で日本国内から6個大隊と憲兵300〜400名の増派を決定。4月15日までに朝鮮現地に配置を完了。大衆的な示威と蜂起は、基本的には3月1日から4月末日まで、その後は散発的なテロおよび地下運動。

海外に報道されて問題となった、全村焼き払いの堤岩里事件

4月15日有田中尉率いる11名の軍警が、堤岩里という小村を包囲、「天道教徒及耶蘇教徒20有余名」を教会に集め、騒擾の責任者を割り出そうと審問。一人が脱出しようとし、阻止したところ二人で抵抗したので斬り棄て。民衆は激昂、木片や腰掛などで反抗したので、軍警は教会を包囲して集中砲火を浴びせて全滅させ、教会はじめ全村を焼き払った。翌16日、通りかかったアメリカ領事、宣教師、『ジャパン・アドバタイザー』記者が、まだ煙が立ち上っている同村を目撃、写真を撮ってソウルに帰った。24日にはイギリス領事、宣教師7名、『ジ』紙記者による現地調査が行われ、4月27日、『ジ』紙で世界に報道された。

200万人が参加した独立運動

三・一運動の規模、朝鮮側の集計数字、3月1日から5月末日まで集会1542回、集会参加人員202万3098名、死亡者7509名、負傷者1万5961名、被囚者4万6948名(同年4月に上海で結成された大韓民国臨時政府の集計)。

日本警察側の数字、3月1日から4月11日まで、騒擾回数786回、騒擾人員49万4900名、死者357名、負傷者802名。6月30日現在で逮捕されて起訴された総数は2万6865名。第一審判決で最高15年から最低3月未満までの受刑者が2万2275名。

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武断政治下で内向的に蓄積してきた「不満が一挙に爆発したのが三・一運動だった」(姜在彦 『日本による朝鮮支配の40年』)わけです。独立宣言に署名した先導者は非暴力的抵抗を意図していたのに、多数の死傷者がでるほどの騒擾となってしまったのは、この蓄積した不満の大きさと、日本の弾圧方針の両者によるものと推定されます。


きわめて大規模な朝鮮独立運動であった三・一運動

この三・一運動は、どの程度の規模であったのか、そのイメージを明確にしたいと思います。

上述の通り、日本警察側の数字は騒擾人員約50万人、朝鮮側は集会参加約200万人です。日本側は4月11日まで、朝鮮側は5月末までと、集計期間に大差があるため、期間の長い朝鮮側の数字が大きくて当然です。また日本側は「騒擾」人員で朝鮮側は「集会参加」人員、「騒擾」人員は「集会参加」人員より少なくて当然と考えられます。したがって、この2つの数字に大きな矛盾はなく、それなりに整合性が取れている、とも言えるように思います。そこで、5月末までで集会参加が200万人という朝鮮側の数字を取ります。

もちろん、これは延べ人数でしょう。1回だけ集会に参加した人もいれば、10回以上参加した人もいたかもしれません。ただし、運動は全国的で、異なる地域の集会への参加には地理的制約があったこと、日本側の鎮圧方針で堤岩里事件のような制圧事件まで発生し、参加にはリスクがあったことを考えれば、1人当たりの平均集会参加回数は決して多くはなかったのではないか、と推定されます。そこで、全くのあてずっぽうですが、1人平均3回の集会参加とすれば、延べ200万人の集会参加の実数は、約70万人弱となります。

ところで、朝鮮の当時の人口は約1700万人弱、これは男女すべて、赤ん坊から年寄りまでの合計です。当時の朝鮮では集会に女性が参加するとは考えにくく、男性の中でも参加するのは青壮年だけで、子供と年寄りは参加していない、と仮定すれば、青壮年の男の人口は、総人口の半分(男だけ)のそのまた半分(青壮年だけ)程度となるので、参加率の分母は400万人強であったと言えそうです。

これに対し、分子である参加実数は70万人弱なので、参加率は全国大で約15%であった可能性があります。平均集会参加が、1人4回であったとしても参加率は10%強、2回なら20%以上になります。全国津々浦々、至る所で集会があったわけでもないでしょうから、全国大でこのレベルの比率は低率とは言えず、参加リスクを考えると、むしろかなりの高率であった、と言えるように思います。

こうして参加率を計算してみると、三・一運動は、やはり朝鮮全国で相当な集会参加規模に達した大独立運動であった、と言えるように思います。だからこそ、日本政府も軍と憲兵の増派を行った、と言えるかもしれません。


21ヵ条要求後の大隈内閣、袁世凱打倒の方針

朝鮮での三・一運動がようやく沈静化したときに、今度は中国で五・四運動が発生しました。中国は、現に日本に併合されて植民地となっていた朝鮮とは、もちろん状況が異なりますので、まずは、この五・四運動発生に至る経緯自体について確認したいと思います。

第一次世界大戦の勃発から約1年間の日中関係の経過は、すでに見た通りです。、

  • 日本は、1914(大正3)年に欧州大戦が開戦するや、時の大隈重信内閣は、満洲・山東両権益の整合性をつけぬまま、直ちに対独参戦して、中国で青島攻略戦を実施しました。
    「日本が戦った第一次世界大戦 B 日本の参戦決定の経緯」を参照ください。)
  • 翌1915年、加藤高明外相は中国の袁世凱政権に対華21ヵ条要求を突き付けて、強硬な交渉を行ったものの、もともと無理な要求事項も含まれていたため交渉は難航し、最終的な合意に達したのは当初要求の半分程度、結果として、中国国内での反日意識を昂進させただけでなく、欧米列国、とくにアメリカからの不信感を買った、という大失策となりました。
    「日本が戦った第一次世界大戦 D 対華21ヵ条要求」を参照ください)

しかし、この対華21ヵ条要求当時の対立状況が、その後五・四運動に至るまで、そのまま継続していたわけではないようです。以下は、その間の経過について、臼井勝美 『日本と中国 − 大正時代』からの要約です。この要約は、実際の複雑な経緯を大幅に端折って要約したものですので、詳しくは、ぜひ同書をご確認ください。まずは、1916(大正5)年後半から翌年の前半まで、大隈内閣時代の状況です。

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1915(大正4)後半〜16年(大正5)前半 大隈内閣対袁世凱の争いと袁世凱の死

1915年の夏、共和制を廃止して袁世凱が皇帝となる気配が濃厚に。10月15日、日本は帝政反対の方針決定、英露の同意を得て中国に勧告。袁政府は帝政年内不実施を決定。10月末から11月中旬にかけて中国各省で投票、全部が君主立憲に賛成。12月13日、袁は皇帝への国民の推戴を承認、正式な登極は若干の猶予を置くという建前。

12月下旬から帝政反対の策動が各地各方面に顕著に。袁政府は帝政実行を更に延期。1916年3月7日、大隈内閣は袁打倒方針を閣議決定、以後、満州・山東の日本勢力圏内で、浪人たちや無頼中国人を使って騒擾を発生。米公使館から頻々と、日本が革命党ないし無頼漢を煽動援助して事態を紛糾させているという国務省への報告。

袁は、3月23日帝政の取消を告示、4月21日責任内閣制実施、国務院総理には段祺瑞。6月6日、帝政の挫折の中で、袁世凱の死、腎臓の障害とも極度の神経衰弱とも。

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この袁世凱の皇帝就任への反対運動は、中華民国の「第三革命」と呼ばれるものです。1911年の辛亥革命が「第一革命」、1913年の孫文ら革命派による反袁世凱蜂起が「第二革命」で、第二革命失敗の結果、1915年の当時、孫文ら革命派の多くは日本に亡命中でした。大隈内閣の反袁方針は、孫文ら革命派への心情的な近さと、革命派に支援することによって得られそうな満州権益確保拡大への期待感によるものと思われます。

第三革命は成功して、袁世凱の帝政は挫折しましたが、この時の日本側の革命派への肩入れは、かえって中国の反日意識を高めてしまったようです。以下は、葦津珍彦 『大アジア主義と頭山満』からの要約です。

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日本陸軍の支援は中途半端、不信義な行動の不良大陸浪人

第三革命にさいして、日本陸軍が直接に中国の各派各流への関係をもったことは、日本の大陸政策に一つの暗影。日本陸軍は反袁各派勢力を援助したが、万事が中途半端、日本人への不信感を植えつける結果となった。しかも、この混乱に乗じて、不信義な行動をした不良大陸浪人も少なくなかった。

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他国内の一方の勢力に肩入れする、という方針が妥当であったかどうかは別にして、その具体的なやり方に工夫が不足していて、むしろ反感を高めるという不適切な結果を招いたようです。結局、大隈内閣は、対華21ヵ条要求で反日意識を昂進させ、その後の反袁世凱・革命派寄りの政策でも日本への不信感を強めさせてしまったわけで、その対中国政策では失策の連続であった、と言わざるを得ないように思われます。


寺内内閣は、当初は中国内政不関与、のち援段政策

大隈内閣から寺内内閣に代わると、日本の対中方針も一変したようです。再び、臼井勝美 『日本と中国 − 大正時代』からの要約です。

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1916(大正5)年10月発足の寺内内閣の対中政策、大隈内閣への批判から出発

寺内内閣は、前内閣が袁世凱の失脚を政府の最高方針として決定し、その実現に狂奔したことに対する批判として、中国の内政不関与、特定の党派不支持の原則を掲げた。

1917(大正6)年2月、アメリカの中国への対独国交断絶勧告から、中国国内対立

アメリカは1917年2月3日対独国交断絶、同時に中立国にアメリカと同様の措置をとることを期待する旨勧告した。寺内内閣も積極的に中国の参戦支持、2月13日西原亀三〔=朝鮮の実業家で寺内の知己〕を北京に派遣、経済援助を表明、参戦を勧告。

これに大総統黎元洪が強く反対、賛成する総理段祺瑞との対立は激化。しかし地中海で中国人労働者を乗せたフランス船が2月24日ドイツ潜水艦の攻撃によって沈没、543人の中国人が溺死の事故。3月14日段内閣は議会の賛同も得たのち、対独国交断絶を通告。

段祺瑞は参戦に積極的。列強からの支持強化・財政援助。また、国内の軍国的支配体制強化、議会の弱体化、革命派の弾圧強化。しかしこれらの状況は、逆に議会側、あるいは革命派からみた場合、参戦反対の理由。中国経済界は一般に参戦には反対、中立の維持を望んでいた。欧州大戦、民族産業発展の好機、そのためにも中立国の地位は有利。

1917年7月、黎元洪と段祺瑞の対立は段が勝利、寺内内閣は援段方針に転換

アメリカは4月6日に対独参戦、4月23日中国が参戦すれば財政援助を示唆。黎大総統は依然参戦反対、5月22日段総理を免職。〔その後張勲による清朝復辟の後、事態を収拾した〕段祺瑞は7月14日北京入城、内閣を組織。黎元洪は大総統辞職。馮国璋が大総統代理に。寺内内閣は7月20日、「段内閣に相当の友好的援助を与え時局の平定を期すると共に、この際日支両国間における幾多懸案の解決を図るを得策とす」との方針を樹立。

8月14日中国は正式に独・墺に宣戦布告。連合国は9月8日付で、義和団事件賠償金の5ヶ年延期、輸入税率の現実5%への引上げ〔実現したのは宣戦から約2年後〕などの条件を通告、日本は8月以降借款を供給し、段祺瑞と連携。南方では国会議員130余人が8月30日広東で非常会議、孫文を大元帥に推挙、いよいよ南北分裂時代に入る。

1917年12月〜18年5月、中国への兵器供給契約・軍事協定

1917年11月、段祺瑞は、馮大総統と衝突して辞職、王士珍内閣の成立となるが、陸軍次長は段派の段芝貴、段自身は参戦督弁に就任。12月末、総額1千7百万余円にのぼる日本から中国への兵器供給契約が成立。事実上は中国陸軍部と日本政府との借款。

1918(大正7)年2月、田中参謀次長は中国章公使に軍事上の共同行動を申し入れ。3月末、段祺瑞が総理となって具体的な交渉開始。5月16日、日華陸軍共同防敵軍事協定の調印。日本は、シベリア出兵のための準備完成。8月2日、シベリア出兵を宣言。

段祺瑞内閣の武力統一計画を支える西原借款、半年間で1億5千万円超

1918年3月23日、第5次段祺瑞内閣が成立。武力統一政策、半ヶ年で武力統一実現と期待。この段祺瑞勢力拡大の基盤が、西原借款を中心とする寺内内閣の援段政策。4月13日の西原日記には注目すべき叙述。「本日…陸宗輿氏と会し、…日支永遠の親善に関する覚書を交換す。…陸宗輿氏はこの覚書の署名にあたり、将来売国奴たるそしりを受けんことを恐れ、戦々恐々として署名せり」

段祺瑞の総理就任より、〔同年9月21日米騒動で〕寺内内閣が倒れるまでに、総額1億5千242万円の借款供与。しかし段祺瑞の武力統一政策は、はかばかしい進捗を見ず。日本の参謀本部も段祺瑞の武力統一が可能とは見ていなかった。段は結局、10月10日、総理の職を退き、参戦督弁として、日本からの兵器、借款による参戦軍3ヶ師の育成に専念。

段祺瑞内閣は、行政費・軍事費を西原ルートを通じて日本に仰ぎ、日本はその窮境に乗じて、鉄道・製鉄、さらに中国幣制など中国経済の基本機構への干渉権を設立しようとした。しかし、中国国内における経済界の一般輿論の強い内戦反対の機運を無視し、段祺瑞派を親日売国派として浮彫りさせた。

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寺内内閣が、出発時点で内政不関与方針をとったことは、カイゼン視点からみて、大隈内閣の失策への反省がなされたもの、と評価できるように思います。しかし、結局この内政不関与策を捨て、援段方針に転換して中国の一般世論とは対立してしまいました。

対華21ヵ条のような反発しか生じない強硬策ではなく、借款供与という、中国側にもそれなりのメリットがある方策を用いた点も、大隈内閣よりはるかに適切であったと評価できます。しかし、短期的に日本の経済的軍事的利権の拡大を図ることに急で、中長期的視点から中国の一般世論を親日に転換させるのに役立つようなものではなかった点で、工夫がきわめて不十分であった、と言わざるを得ないように思いますが、いかがでしょうか。

なお、西原借款は大きな無駄使いでした。借款という名ではあっても、実質的にはほとんど回収が出来なかったために、無償援助に等しい結果になってしまったようです。段政権の武力統一政策は、日本の参謀本部も可能と見ておらず、失敗に終わる可能性が高かった政策です。そんな政権に1億5千万円もの金をつぎ込むぐらいなら、このお金のせめて半分でも、日本国内の経済成長のため、鉄道や道路などのインフラ投資や産業振興の補助金などに充てていたなら、と思わざるを得ません。


中国世論は、ベルサイユ講和会議に過剰な期待

これまで確認してきました通り、1919年初めの日中関係は、対華21ヵ条要求の頃とは異なり、日中の政府間まで対立的というわけではなく、友好的であろうとする努力が一応あったと言えます。それにもかかわらず五・四運動が発生しました。

第一次世界大戦が終結しベルサイユ講和会議が開催されることになったことが、中国の五・四運動の直接の契機となったようです。再び、臼井勝美 『日本と中国 − 大正時代』からの要約です。

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中国世論は、ウィルソン大統領に、大戦中のすべての協定の無効化を期待

1918年11月11日、第一次大戦終結、中国人にとって、中国も一員である連合国の勝利は、専制主義や軍国主義に対するデモクラシーの勝利。ドイツ権益や日本との戦争中の協定は、すべて反故として葬られると期待。ウィルソン大統領によせる中国側の期待は大。

中国の講和方針、山東ドイツ権益は、日本にではなく中国に直接返還

中国側の講和会議への基本方針、膠州湾租借地ならびに山東ドイツ権益を直接中国に(日本ではなく)返還させること。1919年1月28日の五国会議で主張。しかも顧代表は、21ヵ条条約の拘束力は中国の対独宣戦の結果消滅との見解。パリの中国代表部には、全中国各地および海外華僑から支持激励の電報が殺到。ウィルソンの明らかな中国支持。

日本に有利な約定実績、英仏は日本支持、ウィルソンも妥協

中国代表にとって1918年9月山東に関する〔鉄道の借款優先権、警備の分担等についての〕重要な約定が日本側と章駐日公使との間に成立していたのは、重大な打撃。付随して2千万円の前貸しを北京政府は日本から供与されていた。

1919年4月21日、ウィルソン大統領は牧野・珍田両全権に、旧ドイツ植民地の一括連合国委任案を示唆、同時に、日、英、仏各国の中国における勢力圏放棄も提案。これに対し牧野らは、山東問題が日本の要求通りに解決しない場合は、条約調印拒否の可能性を表明。22日の会議で、英・仏が1917年の公文によって日本支持確認も明らかに。

首脳会議は結局、日本へのドイツ権益譲渡を承認の上、日本に宣言書をださせる方策。日本側はこれを原則的に承認。日本側宣言の内容、@日本は山東半島を中国に返還、A日本は経済的権益と居留地設定の権利のみ維持、B特別警察は鉄道輸送の安全のためのみで、中国人と中国政府により任命される日本人教官より成る。この宣言は実質的にウィルソンの意図にかなうもの。

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日本側は、連合国陣営への参加・対独参戦が早かっただけでなく、地中海に海軍駆逐艦隊を派遣するなど、英仏への実質協力があり、それを条件とする密約があったからこそ、主張が通せたわけです。その点で本件は、国際協力・国際協調を現に行うことの重要性を再確認できるエピソードだったと評価できます。

それに対し、中国が連合国への参加・対独宣戦は、上述の通り、大戦終結まであと1年3ヵ月しかない1917年8月のこと、実際に中国軍がドイツ軍と戦闘を行ったことはありません。大戦の期間中、英仏露の連合国による軍夫(労働者)募集に対し、総計20万人近くにおよぶ中国人がヨーロッパに渡った、という事実はありますが、対独参戦前から行っており、連合国となったから開始した協力ではなさそうです。

中国が早めに参戦し、また軍夫派遣が連合国への協力事項であったのなら、講和会議の結果は大きく異なっていた可能性が高いと思われます。しかし、上述の通り、実際には中国国内の革命派や経済界が参戦反対であったため、早期参戦は困難でした。また、中国は連合国への参加によるメリットはなかったかと言えば、上述の通り、経済支援を得ていました。

大戦末期に連合国に加わっただけで具体的な協力がないのに関わらず、大戦勃発以来連合国の一員として実質協力を行ってきた日本を抑える成果を得ようとする中国代表団の方針設定は、あまりにも虫が良すぎて、そもそも無理があった、と言えるように思われます。少なくとも、英仏から理解が得られる主張かどうか、もう少し詰めおくのが妥当であったように思われます。他方、日本側も、中国側がこのようなご都合主義の要求を口に出す前に、もっと調整しておく必要があったと言わざるを得ないように思われます。


1919年5月4日、講和会議への期待消滅で、五・四運動の発生

上記の通り、中国側代表団の行った主張は、本質的には中国国内受けだけを狙った、客観的には実現可能性のきわめて低いものであった、と言えそうなのですが、現実にその主張は通らなかったとの報告が中国国内で明らかになったことが、五・四運動の直接の契機となりました。再び、臼井勝美 『日本と中国 − 大正時代』からの要約です。

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パリの中国全権からの本国への報告がきっかけ

パリの中国全権は、中国の要求が貫徹できなかったのには二つの理由があり、一は、日本がすでに英・仏等から1917年の2、3月、密約で日本の山東要求の支持の確約を得ていること、他は1918年9月、中国政府が山東処理の公文に「欣然同意」していることである、との報告を本国に送り、これが5月3日北京の新聞に発表された。

北京の学生が五・四運動を開始

5月4日、天安門には約3千人の学生が集合、「日貨抵制」「国賊曹汝霖・章宗祥・陸宗輿」などの旗を持ってデモ。曹汝霖邸に乱入し、邸内にいた章宗祥を殴打、邸は焼燬、学生32人逮捕。学生らは、逮捕に憤慨して5日より罷課を開始。事件が天津・上海・南京・武漢等に伝わると、各地で学生を中心としてさまざまな抗議集会。

政府側の曹・陸らの擁護、パリ講和会議への曖昧な方針が、学生を刺激。北京の学生団は19日より再びゼネストを開始、パリ平和条約の調印拒否、曹・章・陸の処罰などを要求。戦術を変えて一般人を混えた小規模な街頭集会、実質的な日本商品のボイコット。

5月下旬には、天津・上海でもゼネストに拡大

天津でも23日から、上海でも26日からゼネストに。6月1日、北京には戒厳令。3日には約400人の学生が逮捕。4日、逮捕者は1150人。学生の大量逮捕のニュースが伝わると、上海では5日午後商店が一斉に閉店し始め、険悪な空気。同日、日本の内外棉の3工場5千人が罷工を開始、他も加わって参加者2万人以上。さらに拡大し、上海の総罷工は9日から10日にかけて最高潮。

政府に対してもっとも決定的な影響、経済的に北京を支配している天津の動向。天津では9日、2万人の市民大会。商会は10日からの同情ストを決議。この報が北京に伝わると、心理的な動揺から金融上の恐慌、紙幣は下落し、北京の経済界は機能を停止。

諸般の形勢をみて、10日政府は遂に曹汝霖・陸宗輿・章宗祥を解職。上海の罷市は3人の辞職の確報を待って12日解除、他の都市のゼネストも以後徐々に解除。銭能訓総理は13日辞職。パリ講和条約を調印するか否かが新たな焦点に。28日中国は不調印。

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五・四運動は、その背景に反日意識があったことは明白ですが、直接の非難対象は、日本と売国的約定を行った段祺瑞派の政府要人であったことが分かります。


五・四運動の原因は、大隈内閣と寺内内閣の対中政策

五・四運動での直接の非難対象は、中国政府の要人であったからと言って、日本は迷惑を蒙った被害者かと言えばそうではなく、反省の余地が大いにあったと評価するのが適切と思われます。

臼井勝美の上掲書中には、五・四運動時の反日意識の昂進の理由の一つとして、山東省で急増した日本人の問題もあったことが指摘されています。青島や済南などの日本人は、大戦勃発前には450名の少数だったが、1918年1月の調査では2万5千人と激増、しかも「浮浪の徒」「醜業婦」など「糊口に窮し路頭に迷わんとせるもの少なからず」(外務省報告)、ドイツ時代には中国人が従事していた職業を奪って中国人が失業することになり、現地中国人の対日感情をさらに悪化させた、という事実があったようです。

この事実も踏まえて、カイゼン視点から経緯を検討してみると、そもそもは、大隈内閣が山東ドイツ利権と満州利権の優先順位を明確にして、山東利権は満州利権確保の手段として中国に返還すべきもの、従って一般日本人は山東の占領地域には立ち入らせない、といった方策が徹底していたなら、対華21ヵ条要求の失策は起こらず、その後の五・四運動も生じていなかった可能性が高かったように思われます。

寺内内閣は、大隈内閣による失策からのエラー回復が必要でした。当初、中国内政不関与策を行い、援段方針に切り替えてからも借款の供与という具体策を実施することで、中国側からの反発が生じないよう努力を行った点は、カイゼンがあったと評価できます。

しかし、寺内内閣は短期的利益を追求し過ぎたようです。五・四運動は、寺内内閣による援段政策の中身が、中国政府要人は「売国奴たるそしりを受け」て不思議ないものであったことの、当然の結果と言えそうです。結局は、相手側の要人の失脚と反日行動とを招きました。過ぎたるは及ばざるが如し、やり過ぎは総てを失う、の典型例の一つとなった、と言えるように思いますが、いかがでしょうか。


三・一運動に対する日本国内の一般的な反応、「文化政治」を歓迎

朝鮮で発生した上述の三・一運動に対し、日本国内はどのような反応があったのでしょうか。以下は、松尾尊~ 『近代日本と石橋湛山』からの要約です。まずは、日本国内での一般的な反応から。

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武断統治策に批判、新総督による「文化政治」を歓迎

三・一運動は日本人の朝鮮に対する関心を一挙に高めた。しかし、3月に運動が始まった段階では、ごく少数の天道教やキリスト教のリーダーと、その背後にある外人宣教師の扇動による一時的な運動と見なした。朝鮮人は併合以前にくらべ生活が幸福になったはずとか、民族自決をとなえることは日鮮道祖の歴史に反する、などの言論が横行した。

4月に入ると、これまでの武断的統治政策に対する批判が続出するようになった。文官総督制採用、憲兵警察制度廃止、植民地会議設置、言論の自由付与等々の要求が主張された。ところが8月に武官総督制に代わって文武官併用総督制が登場し、新総督に就任した海軍大将斎藤実が新しい統治方針として「文化政治」を掲げると、言論界はこれを歓迎し、批判の声を収めた。以後新しい政治方針に満足せず、独立を企てるものは「不逞鮮人」と呼ばれ、憎悪と恐怖の的とされることになった。

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3月段階では、実情がほとんど理解されていなかった、ということでしょう。4月に入って、武断統治への批判が高まったのは、カイゼン意識の表れと評価できると思います。また、そうした世論を受けて、武断統治策から文化政治に転換されたことも、カイゼンの実施として評価できると思います。ただ、文化政治の登場とともに、批判が収まってしまったのは、結局カイゼンの不徹底を招いた、と言わざるを得ないように思われます。

日本国内の言論界の大勢は、植民地保有のリスクに鈍く、それを適切に評価していたとは言えなさそうです。


朝鮮の保有の無理を指摘した吉野作造の「同化政策反対論」

松尾尊~の上掲書は、こうした一般的な反応とは異なる主張があったことも指摘しています。大正デモクラシーを象徴する言論人、吉野作造による同化政策反対論です。再び同書からの要約です。

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吉野作造は、三・一運動以前から朝鮮の植民地保有の無理を指摘

文化政治を支持する言論界の大勢の中で、あくまで同化政策を攻撃し、独立運動を不逞視することを拒否した少数の知識人の代表が吉野作造。『中央公論』〔1916年〕6月号に寄せた「満韓を視察して」は憲兵政治を非難するとともに、朝鮮のような日本文明の先達で独立の文明をもつ民族が「善政」だけに満足するはずはない、世界の大勢からみても同化は不可能だと言明。また、三・一運動発生の半年前には、「朝鮮問題は近き将来に於て我国内政上最も重大な問題」となると、独立運動の発生を予言していた。

三・一運動後は、朝鮮独立運動家の不逞視を批判

吉野の言論の真価は、斎藤新総督の「文化政治」に言論界の大勢が満足したときに発揮された。吉野は1919年11月来日した上海臨時政府の有力者呂運亨と会見し、呂を「稀に観る尊敬すべき人格」と讃え、独立運動家を「不逞の徒と蔑しむことはどうしても余輩の良心が許さぬ」と断言した。

際限のない国防線の拡張リスクを指摘、歯止めとして朝鮮政策の一新を主張

吉野は「文化政治」の下でも変わらぬ同化主義についても、それは「日本人のいう通りの者になれという要求」、すなわち差別を内包する同化主義と的確に認識していた。吉野によれば、そのような同化主義を必要とするのは日本の伝統的国防方針である。国防のためには対馬海峡の安全が必要、その安全を確保するのには対岸の朝鮮を必要、朝鮮の安全のためにはさらに満州が必要、と際限なく国防線を広げていく。吉野は十五年戦争を予言している。この無限の膨張主義に歯止めをかけるには「朝鮮政策の一新」が必要となる。日本の運命は朝鮮統治の在り方にかかっている。

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吉野作造は、日本言論界の大勢とは異なり、現に朝鮮人留学生との交流や現地視察を行っていただけに、朝鮮を保有することには無理があると実感していた、と言えるように思います。


五・四運動でも、日本国内の大勢は既得権益保持論

では、五・四運動については、日本国内ではどのような反応があったのか、再び、松尾尊~ 『近代日本と石橋湛山』からの要約です。

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日本の言論界の大勢は、一貫して日本政府の権益継承の主張を支持

言論界の五・四運動への態度は、三・一運動の場合と類似。パリ講和会議で中国が山東省のドイツ権益の直接返還を要求すると、日本の言論界はごく少数の放棄論を除いて、日本政府の権益継承の主張を支持。五・四運動が発生すると、アメリカが背後にあって扇動しているとか、中国の一部の策士の暗躍によるとかの説が多数を占めた。

6月に入ると欧米と協調をする政府の対中国政策を支持する論調が支配的となったが、一部には北京の親日派政権を積極的に援助せよと主張するものもあった。総じて言論界の大勢は、第一次大戦中のむき出しの大陸進出政策をやめて欧米との協調路線をとるが、既得権益は決して放棄しない、という原内閣の外交政策を支持していた。

吉野作造は、五・四運動に理解

孫文一派の革命派青年たちと交わり、中国革命史の研究を行っていた吉野作造は、五・四運動に深い理解を寄せた。運動は中国の親日派官僚軍閥およびこれを支持する日本の官僚軍閥に対する攻撃であり、この官僚軍閥に対する両国の解放運動が成功して、はじめて両国国民の親善が可能となるという趣旨の文章を『中央公論』その他に発表した。

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どうも日本の言論界は、中長期的な利益を見ることが不得手で、短期的利益にばかり目が行っていたように思われます。他方、吉野作造の主張も、観念的なきらいを免れないという印象を受けます。どちらも、利権の保持拡大のリスクを指摘していた、とは言えないように思われます。


植民地保有のリスクを的確に指摘した『東洋経済新報』

当時の日本の言論界にあって、雑誌『東洋経済新報』だけは、植民地保有がリスクであり、日本は植民地をすべて放棄すべき、と主張していました。同誌の主幹は、1912(大正元)年9月から三浦銕太郎(てつたろう)、1924(大正13)年12月に石橋湛山が継承しています。石橋湛山といえば、敗戦後に政界入りし、1956(昭和31)年12月には首相に就任したものの健康を害してわずか65日で辞任した、という人物です。

『東洋経済新報』その他の誌上で、三浦銕太郎や石橋湛山はどのような主張を行っていたのか、再び、松尾尊~ 『近代日本と石橋湛山』からの要約です。まずは三浦銕太郎の主張から。

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三浦銕太郎の帝国主義批判と満州放棄論 (1912〜13年)

帝国主義が日本にもたらす害毒
@ 国防線の延長の必然化、国防をかえって危険に。満州独占は露中を腹背の敵に。
A 大陸・南方進出は列強との対立、日英同盟の存続を危険に。
B 軍備の無制限の拡張、民衆の過重な負担、産業の発展の妨げ
C 膨大な植民地投資にもかかわらず、過剰人口のはけ口にならず、植民地貿易も不振
D 戦備に無理な公債償却政策、悪税の継続
E 保護貿易主義、少数資本家による新領土占有、国内の物価労賃の騰貴、貿易不振
F 国内政治で軍閥が実権掌握、官界・思想界・実業界でも軍閥の好まぬものを圧迫

帝国主義のもたらす「大日本主義」「軍国主義」「専制主義」「国家主義」に対するものは、「小日本主義」「産業主義」「自由主義」「個人主義」

当面の具体策は満州放棄。同地を維持するため、毎年3000〜4000万円の軍事費と10万人の血税を支払わねばならぬのに、対満貿易額は年間2000万円に過ぎない。満洲掌握は中国分割、中国人の反乱を招き、成功しても第二の朝鮮になる。欧米列強の中国における勢力を強め、日本の国防を危うくする。日英同盟破棄を覚悟せねばならぬ。満洲を放棄すれば、国防線は縮小されて安全に。軍備は日露戦争前の水準、国家財政支出は6分の1を減少可能、悪税廃止・外債償却一挙実現。産業貿易は発展、日本の国際的信用と威望ははるかに高まる。

さらに朝鮮放棄を主張。朝鮮領有は財政をいたずらに膨張させるだけで、しかも永久に占領を続けられる見込みなし。日本が手を引いたあとロシアが朝鮮に進出してきても、国力さえ充実しておれば日本の独立を侵されることはない。

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三浦は、経済誌の編集者らしく、少しも観念論的なところがなく、当時の帝国主義的政策とそれがもたらす結果について、現実に立脚して、あくまで経済的合理性の観点から損得計算を行い、その基盤に立って主張をしていた、と言えるように思います。とくに、上記の主張が第一次世界大戦の勃発前に行われたものであった点にも、注目の価値があるように思われます。

三浦主幹の下で論説を執筆していた石橋湛山は、三浦を「親とも兄とも申すべき」と評していたとのこと。湛山は、三浦の見解と軌を一にする論説を多く発表しています。以下は、松尾尊~編 『石橋湛山評論集』に収録されている、三・一運動直後および軍縮会議前の論説の要約です。

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朝鮮には自治を認めるほかない

いかなる民族といえども、他民族の属国たることを愉快とする如き事実は古来ほとんどない。インド・エジプトの英国に対する反感は年と共に昂まり、アイルランドの独立運動は今日に至っていよいよ激烈を加えて来た。朝鮮人も一民族。多年独立の歴史。衷心から日本の属国たるを喜ぶ鮮人はおそらく一人もなかろう。… 鮮人の反抗を緩和し、無用の犠牲を回避する道ありとせば、鮮人を自治の民族たらしむるほかにない。
(「鮮人暴動に対する理解」 『東洋経済新報』 1919年5月15日号)

朝鮮・台湾・樺太も捨てる覚悟をせよ、支那やシベリヤへの干渉はやめろ

軍備縮小会議が、ついに米国から提議せられた。政府も国民も、なす処を知らざるの観。… 我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていること。志の小さいこと。大欲がない。朝鮮や、台湾、支那、満州、シベリヤ、樺太等の、少しばかりの土地や、財産に目をくれて、その保護やら取り込みに汲々としておる。積極的に、世界大に、策動するの余裕がない。

もし政府と国民に、総てを棄てて掛るの覚悟があるならば、会議は、必ず我に有利に導き得る。満州、山東、その他支那への一切の圧迫を棄てる、朝鮮、台湾に自由を許す、その結果は、英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥る。日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保つを得ぬから。その時には、支那を始め、世界の弱小国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。
(以上、「一切を棄つるの覚悟」 『東洋経済新報』 1921年7月23日号)

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石橋湛山は、世界的な時代の趨勢を認識し、植民地保有のリスクを明確に指摘している、といえるように思います。


石橋湛山の「小日本主義」

上述の通り、石橋湛山の見解は、三浦銕太郎と軌を一にするものであり、その「小日本主義」の主張も、上掲の三浦の帝国主義批判を形を変えて再説しているもの、と言えますが、分かりやすい論旨であり、少し長くなりますが、ここで確認しておきたいと思います。以下は、前掲の松尾尊~編 『石橋湛山評論集』所収の「大日本主義の幻想」(『東洋経済新報』 1921年7月30日・8月6日・8月13日号)からの要約です。

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海外領土保有・勢力拡張は、経済上の価値がない

朝鮮・台湾・樺太ないし満州を抑えておくこと、支那・シベリヤに干渉することは、我が国に利益か。大正9(1920)年の貿易。
・ 移出入合計は、朝鮮 3.1億円、台湾 2.9億円、関東州 3.1億円、総計9.1億円
・ 対米輸出入合計14.3億円、対インド 5.8億円、対英国 3.3億円。
朝鮮・台湾・関東州のいずれも、英国に及ばぬ。米国は、3地合計より5億2千余万円多い。経済的自立というなら、米国、インド、英国こそ、我が経済的立地に欠くべからざる国。

支那およびシベリヤに対する干渉政策が経済上、非常な不利益を我が国に与えて居ることは、疑う余地がない。支那国民・露国民の我が国に対する反感は、これらの土地で我が経済的発展を妨ぐる大障碍である。

干渉の結果として我が支那に対する貿易は、過去10年間、どれほどの発展を遂げたか。
・ 対支貿易総額: 明治43年 1.59億円、大正9年 6.28億円、増加額 4.7億円。
・ 対米貿易総額: 明治43年 1.98億円、大正9年 14.38億円、増加額 12.4億円。
支那に対する干渉政策なるものが、いかに経済上無力であったか、これで知れる。

海外での勢力拡張は、むしろ戦争の原因

軍事的にはどうか。戦争勃発の危険は、むしろ支那またはシベリヤ。我が国が支那やシベリヤを自由にしようとする、米国がこれを妨げようとする。あるいは米国が支那やシベリヤに勢力を張ろうとする、我が国がそうさせまいとする。ここに戦争が起これば、起る。その結果、我が海外領土や本土も危険が起る。もし我が国が支那やシベリヤへの野心を棄つるなら、満洲・台湾・朝鮮・樺太等も入用ならずとの態度に出るなら、戦争は絶対に起らない。論者は、これらの土地を我が領土もしくは勢力範囲として置くことが、国防上必要というが、実はそうすればこそ、国防の必要が起る。原因と結果とを取り違えておる。

人口問題の解決の論点。最近の調査によるに、内地人の台湾・朝鮮・樺太・満州・露領アジア・支那本部居住者は、総計で80万人に満たぬ。これに対し我が人口は、日露戦争当時から大正7年末までに945万人の増加。945万人に対する80万人足らずでは、ようやく8.6%。他方で、有形無形の犠牲をどれだけ払って居るか。海外へ人間を多数送り、それで日本の経済問題、人口問題を解決しようなどいうことは間違いである。

海外領土は、漸次独立か自治に進まざるをえない、早く棄てるのが賢明

領土もしくは勢力範囲を拡張せんとする大日本主義は、今後久しきにわたって、とうてい遂行し難い。昔、英国等が海外領土を拡張した頃は、被侵略地の住民に、まだ国民的独立心が覚めていなかった。これからは、異民族・異国民の新たな併合・支配がとうてい出来ないことは勿論、過去に併合したものも、漸次独立または自治を与うるほかない。アイルランドは既にその時期に達した。インドはいつまで今日の状況を続くるか。朝鮮の独立運動、台湾の議会開設運動、支那およびシベリヤの排日は、決して警察や、軍隊の干渉圧迫で抑えつけられるものではない。彼らは結局、何らかの形で、自主の満足を得るまでは、その運動をやめはしない。

大日本主義は、永く維持し得ぬ。どうせ棄てねばならぬなら、早く棄てるが賢明。賢明なる策はただ、何らかの形で速やかに朝鮮・台湾を解放し、支那・露国に対して平和主義を取るにある、而して彼らの道徳的後援を得る。かくて初めて、我が国の経済は東洋の原料と市場とを十二分に利用し得べく、かくて初めて我が国の国防は泰山の安を得る。

世界で活躍するには、むしろ大日本主義を棄てる必要

我が国民が、世界を我が国土として活躍するためには、即ち大日本主義を棄てねばならぬ。第一、今領土を拡ぐることはかえって四隣の諸民族諸国民を敵とすることに過ぎず、実際において何ら利する処なし。第二、海外領土なるものは、漸次独立すべき運命にある。第三、列強にその領土を解放させる策を取るのが、最も賢明の策である。

移民よりも、生産・貿易と資本進出

米国が、その国内に日本人を入れぬというが、それは移民について。我が国が米国を経済的に利用するには、立派に商売の道によれる。労働者を米国に〔移民として〕送る代りに、その労働者が生産する生糸その他を米国に売る方が善い。あるいは米国から棉花を輸入して、その労働者に綿糸を紡がせたほうが善い。米国は普通の商売の道によって、その原料を我が国に供給することに、決して吝かではなく、また良好にして廉価なる我が品を買うに、決して躊躇しない。こは独り米国ばかりでない。

あるいは、種々の制限はあるにしても、資本さえあるなら、これを外国の生産業に投じ、間接にそれを経営する道は、決して乏しくない。投資さえすれば、それに応じた生産利益は受けられる。要は我にその資本ありや否や。資本がないなら、いかに広大な領土を有しても、そこに事業は起せない。しからば我が国は、まずその資本を豊富にすることが急務。資本は牡丹餅(ぼたもち)で、土地は重箱。入れる牡丹餅がなくて、重箱だけを集むるは愚。牡丹餅さえ沢山に出来れば、重箱は、隣家から、喜んで貸してくれよう。

資本を豊かにするためには、軍縮で浮かした費用を産業振興に

その資本を豊富にするの道は、ただ平和主義に依り、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある。兵営の代わりに学校を建て、軍艦の代わりに工場を設くる。陸海軍経費約8億円、仮りにその半分を年々平和的事業に投ずるとせよ。日本の産業は幾年ならずして、全くその面目を一変するであろう。

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ここでの石橋湛山も、経済的合理性に徹した、筋が通って分かりやすい議論を行っています。


『東洋経済新報』の主張には、当時の経済界からそれなりの支持

こうした『東洋経済新報』の主張について、松尾尊~ 『近代日本と石橋湛山』は、「これは当時の日本では突出した主張であった。しかしこの雑誌は『中央公論』などのような知識人相手の雑誌ではなく、経済界人を読者とする雑誌である。経済的立場から帝国主義政策を棄てよという主張は、経済界のある部分の支持を得ていた」と評しています。

経済人の中に、帝国主義批判への支持者が少なからずいたことには、何も不思議はありません。必ずしも経済人イコール帝国主義者ではありません。むしろ、物事を経済的合理性から判断する人は、経済人の中にこそ多い、というのは当然のことです。

同書は、『東洋経済新報』の主張への支持がそれなりにあったことの証拠として、1913年に徳富蘇峰が『国民新聞』上で、「帝国主義抛却論」の勢力が、「潜黙の際に於て、頗る蔓延しつつあるが如し」として、帝国主義把持論が国是遂行論で、帝国主義抛却論は「国是放擲論」であると批判していた事実を挙げています。

当時はまだジャーナリストであった中野正剛も、やはりこの『東洋経済新報』の主張への反論の一文を書いています。「大国大国民大人物 − 満蒙放棄論を排す」(上掲、『我が観たる満鮮』所収)がそれであり、「経済言論界のオーソリチーと目せらるる某雑誌の紙上に、代表的とも云うべき小国家主義の主張を見た」として、「尤もらしき議論」だが、「専門家の愚論」であると斬り棄ています。その論拠は、「三井物産の某氏」から聞いた「其純益なるものは資本金に比し其割合甚だ低し」であったこと。それなら、「大概の商工業、皆其活動を止め、其資本金を外国銀行に預くるに至るべし … 旨く行きて世界の高利貸国となり、誤ってはその国を蹂躙せられて富みたる亡国となるべし」というのは、政治ジャーナリストの経済音痴ぶりを露呈していると言わざるを得ないように思います。その根本主張は、「国としては大国を建つべし、国民としては大国民を成すべし、人物としては大人物を志すべし」ということでした。

徳富蘇峰の論は、国是と一致しているかどうかが判断基準であり、中野正剛の論は、国としては大国を建つべしという見方に立脚したものでした。どちらも、特定の観念を前提とした正邪論であり、客観的に見れば、経済的合理性に徹した三浦や石橋の主張への批判としては成功していない、と判断できます。

とはいえ、現在の日本の企業でも、経済的合理性に徹した経営判断を行わず、旧来の一般通念や個人のメンツなど、経済的には不合理な要素を含めた判断を行って、成功の機会を逃したり失敗する経営者は、決して少なくありません。現在に至るもこうした傾向があるぐらいですから、当時は、一般通念により近い徳富蘇峰や中野正剛の観念を支持する人の方が、残念ながらはるかに多数派であった、ということであろうと思われます。


三・一運動や五・四運動に無反省・無カイゼンだった日本陸軍

あらてめて整理します。第一次世界大戦終結後の1919年、世界ではアイルランドやエジプトで独立運動が開始され、日本自身も三・一運動や五・四運動を経験しました。植民地もリスクの一つであり、今までのやり方ではマズイ、カイゼンの必要があると認識されて当然の状況となりました。

当時の多数派が、中野正剛によって典型的に示されているような、「国としては大国を建つべし」的観念から抜け出せなかったのは、時代の制約としてある程度やむを得なかったのかもしれません。それでも、中野正剛自身も含め、少なくとも言論界では、植民地の被支配者側の強い反発の原因が武断統治にあることを指摘し、文化政治を支持しました。

植民地リスクの大きさが十分には認識されず、そのため貧しくても植民地だけは広い貧国広国土の大日本主義から、産業・貿易大国を目指す小日本主義に、方向性を転じることは出来ませんでした。しかし、少なくとも大日本主義の手法を改める必要が認識され、実際にカイゼンが行われた、とは言えるように思われます。

ところが、日本陸軍だけは、手法を改める必要すら認識しようとしなかった、と言わざるを得ないように思われます。1919年はシベリア出兵の2年目、すでに反革命のコルチャーク政権が成立していたものの、農民反乱が始まり、革命派のパルチザン運動が拡大していった時期でした。この時期の日本陸軍は、三・一運動や五・四運動から何も教訓を読み取らず、相変わらず「村落焼棄」による武断抑圧策を継続して、「庶民の怨みを買う」結果を招きました。(「日本が戦った第一次世界大戦 H シベリア出兵(2)」を参照ください。)

日本陸軍は、その後も「文化政治」的施策はほとんど採らず、各地でほぼ威圧的武断的な姿勢を取り続けました。その結果、日中戦争期から大東亜太平洋戦争期にかけて、とりわけ中国やフィリピンなどでは、日本軍の支配地域の住民から強い反発を受けてゲリラ戦を仕掛けられ、装備で明らかに劣る相手にも敗退していったわけです。日本陸軍はカイゼン意識が乏しく、第一次世界大戦期の自身の経験から学ぼうとしなかったために、昭和前期の大失策をしでかした、自業自得であった、と言わざるを得ないように思いますが、いかがでしょうか。


上に確認してきました通り、アイルランドとエジプトで独立運動が開始され、三・一運動や五・四運動が起ったのは1919年、またアイルランドとエジプトが自治や独立を果たし、日本がシベリアから撤退したのは1922年でした。

日本自身の朝鮮・中国・シベリアでの経験から適切で前向きな反省を行い、イギリスのアイルランドやエジプトでの経験から積極的に教訓を学んでいたなら、昭和の日本が、朝鮮・台湾を抱えたまま、1931年に満州、1937年には中国本土、さらに1941年以降は東南アジアの全域で、実質的な領土や勢力圏の拡張(=リスクの拡大)をひたすら目指して、結果として大失敗するような愚を避けることができたのではないか、と思うのですが、結局日本は「植民地を持つことがリスクに転じ始めた」ことを認識し損ねた、と言えるようです。


次は、陸軍が学べたはずの教訓、兵員数より最新兵器、という点についてです。


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