西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

日本が戦った第一次世界大戦

「日本が戦った
第一次世界大戦」
の構成

航行中の英艦隊
英軍の戦車
米軍の毒ガス対策
上 航行中の英艦隊
中 英軍の戦車
下 米軍の毒ガス対策
(『欧州大戦写真帳』より)
 
サイトトップ 主題と構成大戦が開戦に至った経緯
第一次大戦の経過
第一次大戦の総括
日本が戦った第一次大戦第一次大戦時の 日本の経済第一次大戦時の 日本の政治日本の参戦 決定の経緯 青島攻略戦 戦闘の経過 対華21ヵ条 要求南洋諸島 の占領連合国への協力 地中海などシベリア出兵@ 出兵の決定シベリア出兵A 共同出兵シベリア出兵B 日本の残留
日本が学ばなかった教訓参考図書・資料

カイゼン視点から見る日清戦争
 

これまで、第一次世界大戦の主戦場となったヨーロッパでの戦闘について確認し、その総括を整理してきました。ここからは、極東の地にありながら第一次世界大戦に参戦した日本について、確認していきます。

日本は、第一次世界大戦に連合国の一国として参戦したものの、欧州ではほとんど戦っていないこと、作戦行動に当たっても日本独自の利害追及がなされたことが多かったことから、いわゆる欧州大戦とは別に確認していく必要があると判断されるため、章を改めています。


「日本が戦った第一次世界大戦」の構成

「日本が戦った第一次世界大戦」については、以下の順序で確認を進めていきます。

第一次世界大戦時の日本の経済状況

第一次世界大戦の勃発は、日本最初の対外戦争である日清戦争から20年後、欧州列強の一国と初めて戦った日露戦争からは10年後、というタイミングでした。まずは、この当時の日本の国力はどの程度のところまで来ていたのか、経済と財政の状況について、確認します。

@ 第一次世界大戦時の日本の経済

第一次世界大戦時の日本の政治状況

経済的な状況を理解した次には、政治の状況について確認したいと思います。当時の重要な政治課題な何であったのか、を確認します。

A 第一次世界大戦時の日本の政治

日本の参戦決定の経緯

欧州で大戦が始まると、1ヵ月経たないうちに、欧州からはるか遠く離れた極東の日本がドイツに宣戦します。当時の日本にはドイツとの紛争があったわけではないのに、時の大隈重信内閣は、加藤高明外相にも引っ張られ、対独宣戦布告を決定しました。そのさいの大隈内閣の意図を確認します。

B 日本の参戦決定の経緯

青島攻略戦の戦闘の経過

第一次世界大戦中に日本陸軍が戦ったのは、開戦の年1914年の青島攻略戦と、欧州での大戦終結の年1918年に開始して1922年まで続けたシベリア出兵がありました。このうち、青島攻略戦は、ドイツの出先軍に対し日本軍が慎重かつ十分な準備を行った上で開始したものであり、日本陸軍史上最も合理的な戦い方を行い、その結果戦死傷者もきわめて少なかった戦争でした。その戦闘の経過を確認します。

C 青島攻略戦 戦闘の経過

対華21ヵ条要求

青島攻略戦の事後処理として対中交渉が必要となりましたが、大隈内閣の加藤外相はそのさい、悪名高き「対華21ヵ条要求」を行い、中国の反日感情をいたずらに昂進させ、またアメリカとの関係も悪化させました。「対華21ヵ条要求」とはどのような内容の対中要求であったのか、なぜそのような要求が行われてしまったのか、結末はどうなったのかを確認します。

D 対華21ヵ条要求

南洋諸島の占領

日本海軍は、陸軍の青島攻略戦にも協力しましたが、同時に並行して、独自の作戦として、赤道以北のドイツ領南洋諸島の占領も行いました。その経過を確認します。

E 南洋諸島占領

連合国への協力

青島攻略戦や南洋諸島占領は、日本の利益獲得のための切り取り強盗行為でしたが、日本の陸海軍は連合国の一員としての行動も行っています。地中海への駆逐艦隊の派遣や武器援助など、第一次世界大戦時の日本軍の国際協力の状況を確認します。

F 連合国への協力 地中海など

シベリア出兵

第一次世界大戦から派生してロシアには革命が起こった状況下、日本もシベリア出兵に参加、他の列国が全て軍を引き上げた後も出兵を継続して、国際的な非難を受けました。この軍事行動については、カイゼン視点からはいろいろな課題が見出せるため、3ページに分けて確認しています。

まずは、1917年11月ロシアで十月革命が勃発してから、翌年7月にシベリア出兵が決定するまでの経緯について、とくに列国側の主目的は、革命への干渉ではなく、第一次世界大戦の東部戦線の再建であったのに、日本は目的がズレていたことを確認します。

G シベリア出兵 (1) 出兵の決定

1918年8月の出兵開始からわずか3ヵ月で、広大なシベリアに反革命統一政権が成立しますが、その後の赤軍の巻き返しとパルチザン戦の拡大により、1920年1月には反革命政権が倒れ、日本以外の列国は撤兵を決定します。その間にどのような経緯があったのか、日本軍はパルチザン戦ではどのような戦いぶりであったのかを確認します。

H シベリア出兵 (2) 共同出兵

1920年には英米はじめ列国がすべて撤兵したのにかかわらず、また干渉の目的が果たせなくなったことも明白であったのに日本だけは残留、最終的に1922年10月に日本は撤兵しましたが、失敗が明らかな軍事行動となりました。尼港事件も含め、その間にどのような経緯があったのか、また出兵の失敗に対しどのような反省がなされたのか、について確認します。

I シベリア出兵 (3) 日本の残留


まずは、第一次世界大戦期の日本の経済状況について、です。


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