西部戦線の英軍重砲
ベルギーの村の被害
廃墟を活用した通信壕
上 西部戦線の英軍重砲
中 ベルギーの村の被害
下 廃墟を活用した通信壕
(『欧州大戦写真帖』より)
 

カイゼン視点から見る

第一次世界大戦


A Review on World War I from Kaizen Aspect

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航行中の英艦隊
英軍の戦車
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第一次世界大戦の文学・映画の作品

以下は、第一次世界大戦を主題、または重要な題材とした文学や映画の作品についてです。


レマルク (秦豊吉 訳) 『西部戦線異状なし』 新潮文庫 1955
(初刊 中央公論社 1929)
<原著 Erich Maria Remarque, Im Westen nichts Neues, 1929>

レマルク 西部戦線異状なし 表紙写真 原著が執筆されたのは、第一次世界大戦終結から10年に満たない1928年初めのこと(中央公論社版「訳者より」)、同年11〜12月にドイツの新聞に掲載、翌29年1月に出版されると、その後18ヵ月間に22ヵ国語に翻訳されて、合計250万部が販売された(Wikipedia英語版)とのこと。当時の国際的な大ベストセラー作品です。

日本でも、原著出版からわずか10ヵ月の1929年10月5日に翻訳書が出版されると、同月10日に二十版、12月10日には百版と(中央公論社版の奥付)、またたく間に版を重ねたようです。

Wikipedia英語版では、著者は1898年6月生まれ、1917年6月に18歳で徴兵されて西部戦線へ送られ、同年7月31日に負傷して、以後戦争が終わるまでドイツの陸軍病院で過ごした、とありますが、新潮文庫版の訳者「あとがき」では、「学徒出陣」としているだけで、志願兵か徴兵かは触れられていません。

いずれにしても著者は、短期間でも前線での軍隊生活や戦闘を経験しており、さらには負傷兵として長期間の病院生活を行ったようです。また、本書は戦後10年たたぬうちの執筆であり、戦場経験を持った多くの人びとからいろいろ聞き取りをしていただろうことも間違いないと思われます。

本書の巻頭に置かれた著者自身の言葉、「この書は訴えでもなければ、告白でもない積りだ。… 戦争によって破壊されたある時代の報告の試みに過ぎない」の通り、本書は、食事・便所・野戦病院から始めて、兵士の軍での生活や前線での戦闘などに関するさまざまなエピソードを、淡々と描いています。

元ドイツ兵が書いた作品が、発売直後から世界的なベストセラーになったのは、描写の現実性に、ドイツのみならず各国の多くの兵士経験者が同感したためであったのではないか、と推測されます。

実際、本書の主人公たちは、とりたてて反戦的でも反軍的でもない、むしろ優秀なドイツ兵士である、という印象を受けます。しかし、本書のさまざまなエピソードの全体を読み通すと、結果として、兵士自身にとっての戦争の空しさや、その家族にとっての悲惨さが痛感される、そういう作品であると言えます。

なお、1929(昭和4)年の中央公論社版は、何しろ戦前の出版ですので、一部の箇所に「伏字」があります。戦後の新潮文庫版と突き合わせてみますと、カイゼル批判と受け取られうる箇所や、男女の愛情表現に関わる箇所などが伏字となっていることが分かります。この本が反戦的であるとして訳者が「赤坂憲兵隊に呼び出された」(新潮文庫版「あとがき」)のに、厭戦的な表現が別段伏字にされてはいなかったところは、別の観点からの興味を引くところと言えるかもしれません。


映画 『西部戦線異状なし』 アメリカ 1930
<原題 All Quiet on the Western Front

ついでに、映画の『西部戦線異状なし』にも触れておきます。

レマルクの小説がドイツで出版されたのが1929年1月、この映画がアメリカで封切られたのは1930年4月と、非常に早いスピードで映画化されています。1930年度のアカデミー賞作品賞・監督賞の受賞作品です。

どんな小説の映画化でも、原作に完全に忠実な映画化作品はめったにありません。レマルクの原作のたくさんのエピソードを、2時間ちょっとの上映時間に押し込めることはもともと無理ですし、映画化したのはドイツではなくアメリカでしたから、本映画作品も原作とは若干異なる味付けになっているのはやむを得ないと言えるでしょうか。

たとえば、映画は、ドイツ兵士が出征していく町での、ギムナジウムの教室の場面から始まります。後半で主人公が休暇で町に戻ってきたときも、ギムナジウムの教室の場面が出てきます。ところが、原作にはギムナジウムの場面は一切存在していません。また、映画の有名な結末も、原作にはありません。

映画化にあたってのこうした味付けの結果として、映画は原作とは異なり、「反戦」メッセージがよりストレートに出ているように感じられます。

ただし、原作とは異なる味付けはあまり好きではないという人にも、この映画には一見の価値があるように思われます。それは、映画ならではの特性として、戦場や前線、塹壕、病院などの当時の状況を、視覚化して見せてくれているところです。原作をどこまで深く読んでも、1910年代の当時の事物をよく知らない現代の我々には、原作の各エピソードの状況を正しく想像することはなかなか難しいところがあります。第一次世界大戦からわずか10数年という、記憶が明瞭な時期に製作された本映画作品には、その点で大きな価値があると思われます。

一方、映画を見ただけで原作を読まれていない方には、ぜひ原作を読まれることをお奨めします。原作には、映画では表現しきれていない味わいが詰まっているからです。


ロバート・グレーヴズ (工藤政司訳)『さらば古きものよ』 上・下
岩波文庫 1999
<原著 Robert Graves, Goodbye to All That, 1929>

本書は、イギリスの詩人・文学者で、第一次世界大戦に志願し前線で戦った経験を持つ著者が、レマルクの『西部戦線異状なし』と同じく1929年に、30代半ばで出版した半生記です。全32章のうち、第10章〜第25章の16章分、すなわち全体のちょうど半分が、第一次世界大戦期についての記述となっています。

著者が19歳、オクスフォード大学に入学する直前に大戦が勃発、イギリスがドイツに宣戦布告した「1日か2日後には入隊を決め」ます。特別予備将校となって、1915年5月までにフランスに送られ、塹壕戦に従事します。同年7月までに中尉になっていた著者は、9月のロース攻勢では小隊を指揮、激戦の中で「中隊でたった一人の将校」になって生き残ります。軍の急拡大と激しい損耗の状況下、「入隊が早かった」ので、同年10月には弱冠20歳で大尉に昇進します。

1916年7月1日からのソンム攻勢に参加、7月20日、ドイツ軍の8インチ砲弾が「3歩後ろで炸裂」し負傷、意識を失います。このとき、著者は死んだものと思われて、家族あてに戦死の知らせが送られています。イギリスで治療後、翌17年1月にはフランスに戻り、後方の輜重隊勤務となりますが、気管支炎でまたイギリスに送り返されます。

以後は、健康問題もあり戦場には戻らず、イギリス国内またはアイルランドに勤務して休戦を迎えます。17年にイギリスに送り返されて以降の著者は、戦場で夥しい死を目にし自身も重傷を負った経験からでしょうが、この戦争は続けるべきではない、和平に向かうべきであるとの考えが強くなります。

第一次世界大戦時のイギリス軍と西部戦線について、著者自身の実体験が書かれていますので、非常に読み応えがあります。「お馴染みのレマルク著『西部戦線異状なし』に勝るとも劣らぬ名作」であり、「第一次世界大戦史…の研究者には必読の書」(訳者「解説」)との評価には、大いに同意します。


シュテファン・ツヴァイク (原田義人訳) 『昨日の世界』上・下 
みすず書房 1961
<原著 Stefan Zweig, Die Welt von Gestern, 1944>

シュテファン・ツヴァイクは、1881年11月ウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人の作家です。レマルクやグリーヴズより10歳以上年上で、第一次世界大戦が勃発した1914年8月には、すでに33歳でしたから、戦場体験はありません。1934年にロンドンに移住、さらに1941年にはブラジルに移住し、1942年2月61歳で、世界全般の情勢に不安を感じて自殺しています。(上掲訳書所収の「年譜」による)

本書は回想録です。1940年ごろ(訳書「あとがき」)、60歳目前のツヴァイクが、著者の記憶だけを頼りに執筆したもの(著者「はしがき」)です。第一次世界大戦期についていえば、執筆時から20数年前の、著者が30代半ばだった頃が回想されている、ということになります。実体験に基づくものだけに、貴重な資料の一つと言えるように思います。

本書の中で、第一次世界大戦関係でとくに目についた記述には、下記があります。

  • ドイツのヴィルヘルム2世は、開戦直前のフランスでは、大衆から激しく嫌われていた(フランスの映画館でニュース映画を見たときの体験)

  • サラエヴォで暗殺されたフランツ・フェルディナント夫妻は、オーストリア国民から不人気で、皇帝から嫌われていることも知られていた。暗殺で他の皇族が有利となったので、ひそかにほっと息をついた人も多かった。

  • 1914年7月半ば、ヨーロッパでは誰も戦争を予想せず、ツヴァイクが避暑に出かけたベルギー海岸のホテルも満員だった。セルビアに対しオーストリアが宣戦布告した7月28日ごろまでに雰囲気が変わり、海岸はからっぽになった。

  • ツヴァイクは、1915年政府の仕事で、ロシアから奪還されたガリツィアに行き、その地の住民・捕虜・病院列車など、戦争の悲惨さを見たことで反戦の立場になった。

  • 1917年のオーストリアでは、その参謀本部はドイツ軍のルーデンドルフをきらい、外務省は無制限潜水艦攻撃に反対し、民衆も「プロシャの思いあがり」についてぶつぶつ言っていた。カトリック教徒で平和主義のオーストリア人は、ドイツ的・プロシャ的・プロテスタント的軍国主義に対して深い敵対関係にあった。

ドイツ人のレマルク、イギリス人のグリーヴズとは世代も国も異なっており、視点自体が相違していますので、本書には別の面白さがあります。


映画 チャップリン 『担え銃』 アメリカ 1918
<原題 Charlie Chaplin, Shoulder Arms

少し毛色が変わったものになりますが、チャップリンの映画 『担え銃』も、第一次世界大戦をテーマとしています。アメリカでの公開は1918年10月20日、すなわち同年11月11日の休戦のわずか20日前、というタイミングでした。

この時代の作品ですから、白黒の無声映画です。チャップリンは、フランスに送られるアメリカ兵を演じています。

喜劇ですので、もちろん現実の忠実な再現ではありません。例えば、この映画のドイツ兵は皆、角付きヘルメットをかぶっていますが、おそらく画面上で敵味方を区別しやすくするため、と推測されます。(角付きは目立って標的にされやすいことから、1916年以降、前線から順次角なしに切り替えられており、アメリカ兵が登場した1918年の西部戦線では、角付きはもう姿を消していただろうと思われます。)

現実に忠実な再現からは遠くても、現地を知らないアメリカ人が想像した現地の姿が映画として再現されている、と言えるかもしれません。この映画の前半は、塹壕シーンが続きます。雨に悩まされた塹壕の現実が、プール化した塹壕として茶化されているところは、健全な喜劇精神の現れと言えるように思います。

本作品は、DVD『チャップリン短編集1』に所収されて販売されており、レンタルも可能のようです。原題でYouTubeを検索されれば、無料の視聴も可能です。ただし、limburgerとは、悪臭で有名なチーズ、ということだけは、註釈が必要と思いますが。



なお、第一次世界大戦の文学作品や映画については、JMウィンター 『第一次世界大戦』中の「下 第3部 戦争の記憶」で、上記以外の多数の作品が紹介されています。

次は、第一次世界大戦の根幹をなす、欧州大戦についての参考図書・資料についてです。


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