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第一次世界大戦から日本が学ばなかった教訓として、最初に国家の経済成長モデルの問題、次にはそれに関連して植民地保有のリスク化の問題、その次には観点を転じて当時の財政制約の中での陸軍の近代化問題、さらには同じく財政制約の中での低費用で有効な海軍作りの問題を見てきました。 最後に、国家の安全保障に大きな影響のある外交の基本戦略という観点からの教訓について、確認したいと思います。 第一次世界大戦=長期総力戦の勝敗を決したのは、経済封鎖すでに見てきたとおり、第一次世界大戦でのドイツは、軍事的には、西部戦線でも東部戦線でも、開戦時から末期まで、常に優位を保っていたのにかかわらず、連合軍側による経済封鎖の影響によって、最終的に敗北してしまいました。 「速戦即決」は成立しない、すなわち、軍事的に優勢な状況で講和を願望しても、現実には講和が成り立たないことは、すでに今までのページで確認してきたとおりです。大戦が長期化すると、経済封鎖の影響が表面化します。ドイツの銃後では「カブラの冬」で餓死者も出す状況になり、さらに兵への補給も不十分となって、1918年春以降の劣勢化とドイツ革命の原因となりました。経済封鎖がドイツ敗北の条件を作りだしたわけです。 敗戦の1年半ほど前、ドイツがイギリスに対する経済封鎖を徹底することで、ドイツの戦勝が得られそうに思われた時期もありました。ドイツは、まだ中立国だったアメリカを敵に回すリスクをあえて冒し、無制限潜水艦作戦によるイギリスへの経済封鎖の徹底を試みて、アメリカ参戦の前に勝利を得ようとしましたが、イギリス側の護送船団方式などの対策が功を奏し、イギリスは経済封鎖を免れました。そして、大戦中、連合国側にはアメリカが終始物資を供給し続け、さらに最終段階では連合国側に立って参戦したことが、連合国側が勝利を得られた大きな理由の一つとなりました。 工業化された戦争にあっては、経済封鎖が勝敗の帰趨に大きな影響を持つ、ということが、第一次世界大戦の重要な教訓の一つと認識されたことは、リデル・ハート 『第一次世界大戦』が指摘している通りです。 経済封鎖回避の手段は、経済先進国との貿易・協調関係の維持言い換えると、長期戦とならざるをえない戦争で負けないためには、自国は経済封鎖を免れる条件を確保しつづけられることが必須となりました。さらに、最終的な戦勝を得るためには、逆に敵を経済封鎖することが、非常に有利となると分かりました。 自国は経済封鎖を免れ、できれば敵を経済封鎖できる手段とは、何でしょうか。それをカイゼン視点から考えれば、その手段とは「貿易関係を維持できる味方を持ち続けること」です。では、味方を持ち続けるにはどうすればよいでしょうか。そのためには「国際協調を行う」ことが必須であり、とりわけ強力な貿易相手国すなわち「経済先進国との協調関係が重要」である、ということになります。 戦時は物資不足となるのは必然、戦時こそ貿易関係の維持が重要食糧も工業原料も工業製品も、すべてを自給自足できる国など存在しません。また、たとえ平時の自給率が高い国であっても、戦時には、片方で産業から兵員への大量動員が生じて生産を阻害する条件が生じる一方、もう片方では軍による軍需物資の大量消費が発生し、とりわけ軍需物資が不足する事態となります。 需要が増大する軍需物資の生産拡大に、非軍需物資の生産能力を振り向ければ、非軍需物資の不足を生じ、やはり自給率は低下することになります。したがって、軍需・非軍需両方の必要物量を確保するため、実は戦時こそ貿易関係の維持がより重要になる、と言えます。 さらに、工業化された戦争では、重要な兵器や弾薬等の効率的な大量生産は、工業化がより進展している国でないと不可能であるため、より経済力の大きな経済先進国との協調がとりわけ重要となります。 すなわち、「工業化された戦争にあっては経済封鎖が勝敗の帰趨に大きな影響を持つ」という第一次世界大戦の教訓をもう一歩進めて考えてみますと、「工業化された戦争の時代にあっては、経済先進国との協調関係の維持が、何よりも有効な安全保障の確保の手段となった」、と言い換えるのが適切であるように思われます。 日本にとっては、とくに英米との協調が重要であった当時の日本が経済封鎖を免れるためには、その地理的な条件から、近隣の中国またはロシア(ソ連)、あるいは、アジア・太平洋地域で海軍力を有するアメリカ・イギリスとの協調が重要であった、と言えるように思われます。 中国やロシアが友好国であれば、日本への物資輸送の距離は最短ですので、たとえ日本が敵国から海上封鎖をされかけても、輸送路を防御することは比較的に容易と言えるでしょう。ただし、中国やロシアは経済先進国ではなかったので、武器弾薬のような工業製品については、供給力に大きな制約がありました。 加えて、当時の日本は、中国に対しては対華21ヵ条要求、ロシアに対しても革命後のシベリア出兵、という行動の結果として、この両国と強固で安定的な協調関係を結ぶことが困難な状況に陥っていただけでなく、その後も友好関係を回復するための積極的な努力はなされていなかった、と言えるように思います。 そうなると、中国・ロシア以外で、経済封鎖を受けないように協調できる国が必要でした。「日本への物資供給が可能な有力な外国」の条件にぴったり当てはまるのは、中国の華中やマレー・シンガポール・インド・オーストラリアなどで経済権益または自治領・植民地を有していたイギリスか、太平洋の向こう側の経済大国でフィリピンも領有していたアメリカの、どちらかでした。 イギリス・アメリカの両国以外には、日本を経済封鎖できる海軍力を保有する国はなく、従って、この両国との協調関係を維持できたなら、日本が長期戦に巻き込まれ、経済封鎖されて敗北する事態は避けられたはずです。 日本が、一方的な利益主張を行わず、とくにイギリス・アメリカに対し、常に国際常識と相手国との相互尊重に基づいた行動を行うという国策を実行して、両国との協調関係を維持すれば、安全保障上のリスクは最小化できる、という状況にあったわけです。 日露戦争時は、英米との協調のおかげで戦勝できた英米との協調、と言えば、思い出されるのは、日露戦争です。当時の日本は、イギリスと日英同盟を結んでいただけではなく、アメリカとも良好な協調関係にあり、両国から経済的・外交的支援が得られたおかげで、戦費の調達も出来、ロシアとの講和を有利に決着することもできました。英米両国のおかげで日露戦争が上手く行ったのですから、英米両国との協調路線をそのまま維持していたなら、日本が昭和前期の大失策に進むことはなかった、と言えます。 ところが日本は、この第一次世界大戦期に、余りにも強引な対華21ヵ条要求を行ったことでアメリカからは不信用を宣告され、その後日英同盟も解消されてしまいました。加藤高明の対華21ヵ条要求は、まさしく「もーだめだ、外交がたたきこわされた」という表現が少しも過大ではない事態を招いた、と言えるように思います。 第一次世界大戦前後の日本の国際協調関係の変化は、ビスマルク後のドイツの国際関係の変化に似ているかもしれません。すでに確認しましたとおり、ビスマルク時代のドイツは、ロシア・イギリスと協調関係にあり、フランスを孤立させていました。ところがビスマルク後は、逆にフランスがロシア・イギリスと協調関係に入って、ドイツは包囲されてしまいました。 ビスマルク後のドイツの国際関係の変化の原因の重大要素の一つに、ドイツ国内ユンカー層の、ロシアからの農産物輸入に対する経済利害対立があったわけですが、第一次世界大戦期の日本の国際関係変化の要因中にも、満州の開発をめぐるアメリカとの経済競合の存在が指摘されているようです。 国内集団の利害を優先すれば、国内からの支持は得やすくなります。しかし、副作用として、国際的な安全保障リスクが高まります。ビスマルク後のドイツも、第一次世界大戦期の日本も、国際的な協調関係の維持の重要性と、国内の一部集団の利害との、適切なバランスの維持に失敗した結果、せっかく形成して機能していた国際協調関係を失ってしまい、最終的には大きな損害を負った、と言えるように思います。 日独伊三国同盟では、経済封鎖対策に全く役立たなかった昭和前期まで進むと、日本は、英米との協調努力を行わないどころか、むしろ好んで日本の一方的な利益主張を行って対立しました。その後の日本が国際協調の対象に選んだのは、ドイツとイタリアでしたが、この二国では地理的に日本への物資供給が困難で、経済封鎖対策には全く役立ちませんでした。 すなわち、昭和前期の日本は、国際連盟を脱退して孤立化し、その後も適切な経済封鎖対策を実行せず、自ら進んで英米によって経済封鎖される条件を作ってしまった、基本的な戦略が根本的に不適切であった、と言えるように思います。第一次世界大戦の教訓を全く学ばず、呆れるほどヘタクソなことをやったので、負けたのは当然の結果である、と言わざるを得ないようです。 当時の日本の国防方針と仮想敵国この当時の日本の国防方針はどのようなものであったか、経済先進国との協調関係が意識されていたのか、について、まずは、日露戦争後の1907年から第一次世界大戦末期の1918年の期間について、以下は黒野耐 『日本を滅ぼした国防方針』からの要約です。 1907年の国防方針、日露戦後でも、仮想敵国はロシアが第一国防方針の制定は、国防の意思を統一するという目的のほかに、軍備拡張の正当性を確立する狙い。〔日露戦勝後で〕日本周辺に窮迫した脅威が見られない情勢下、陸海軍が将来に備えて軍備を拡張していくのには、確固として根拠が必要であった。明治40(1907)年国防方針は、その基本方針において南北併進、仮想敵国をロシア、ついでアメリカ、ドイツ、フランス。この仮想敵国の設定が、実際に予測される国際情勢の推移とは矛盾、極東では日本とロシアが協商。 1918年の国防方針第1次改訂、仮想敵国はアメリカ・ロシア・中国大正7(1918)年に新国防方針の裁可。この大正7年国防方針は成案が残されていないが、史料からその構想の大要を明らかにすることができる。米露中三国を主想定敵国。長期間の国家総力戦に対応するため、日支自給自足体制の確立をめざす。複数国との戦争を基準にして、開戦初頭に決戦を追及する短期戦の思想と、長期間の総力戦を戦い抜く思想が併存。 国防方針は、本来は、時々の国際情勢下での日本の国家としての戦略に基づいて定められるべきものであるのに、実情は陸海軍が、その軍備拡張の根拠とするために、政府に諮ることなく定めたものであったようです。すなわち、陸海軍の予算獲得の根拠資料であった、と理解するのが妥当のようです。 予算目的でしたから、1907年には、日露戦争の戦勝で日本の安全を脅かす国はなくなったにもかかわらず、またロシアと協商関係に進んでいるにもかかわらず、ロシアを仮想敵国の筆頭とするという、現実とは明らかに矛盾した方針が、策定されたようです。 第一次世界大戦末の1918年の改訂では、アメリカが主想定敵国に格上げされたという点で、従来の想定とは大きく変わりました。この時、せめて日露戦後と同様、アメリカが仮想敵国なのは予算対策上だけで、現実には外交軍事の両面でアメリカと協調するのが国策だ、という認識が共有されていたなら、昭和前期の大きな不幸は生じていなかったのではないかと思います。 「日支自給自足体制の確立」は適切な方策ではなかった上述の1918年国防方針にも出て来た「日支自給自足体制の確立」についてですが、これは経済封鎖回避のための妥当な方策であったのでしょうか。 日中協調が実際に成立しえたかどうかは別問題として、日本と中国が組めば、経済先進国の力を借りずに工業力の拡大と工業原料の開発を行うことができそうに見えるかもしれません。しかし「日支自給自足体制」は、経済的に見て、現実には成り立たない路線であったように思われます。 まずは、天然資源を中国に求めるのに、経済力が弱い日本では開発資金が不十分で、開発競争で経済力の大きな国に負ける可能性が高いことは明らかでした。もしも開発課題がクリアーできて、資源調達ではある程度自給が可能になっていたとしても、より大きな問題は工業水準です。 工業水準が低く財政力も弱いという当時の日本の条件下では、工業力を自力で早い速度で成長させることは、きわめて困難でした。それを成し遂げるのに必要な資金が乏しく、技術もまだまだ先進列国から学ばなければならない状況にあったからです。自動車など、アメリカでは量産が開始され普及が始まっていたのに、日本では国産化すらされていない段階でした。「工業力の自主開発」を迅速に行うことは現実的ではなかった、と言わざるをえません。 「当面の国力の不足は、経済先進国との協調関係の維持で補う」という手段の選択以外に、現実的な方策はなく、「経済先進国の力を上手く活用すること」こそが適切な方策であった、と言えるように思います。
工業水準引上には、経済先進国の力を上手く活用すること「経済先進国の力を上手く活用」した実例として、現代の中国があります。中国は、毛沢東時代の自力更生期には、経済成長速度はなかなか上がりませんでした。しかし、ケ小平が改革開放路線に転換し、積極的に外資と外国技術の導入を開始して以後は、著しい高度成長を達成しました。 そのさい懸念された、中国経済が外国資本に牛耳られてしまう事態の発生については、外資の進出意欲を殺がない範囲で外資に対する規制を行うという方策によって、効果的に防止してきた、といえるように思います。また、資本主義陣営の先進国との協調は、中国の迅速な経済成長を可能にしただけではなく、中国自身の安全保障リスクも引き下げた、と言えるように思います。 昭和前期の大失策の元凶は、陸軍の上原勇作、海軍の加藤寛治1922年の第2次改訂になると、第一次世界大戦の教訓からは、距離がますます遠くなってゆきます。再び、黒野耐 『日本を滅ぼした国防方針』からの要約です。 1922年の国防方針第2次改訂、短期決戦思想で、アメリカ主敵大正11(1922)年、国防方針を裁可。山梨軍縮も並行、軍制改革と現状維持の両思想が対立するなか、参謀本部は上原総長、軍令部は加藤(寛)次長、当然の結果として、現状維持思想にもとづいて改訂され、短期決戦思想に逆戻り。短期決戦の対象として、アメリカを初めて主敵にし、対米一国戦、対ソ一国戦、対中一国戦を行うとした。 将来戦を総力戦と認識する場合、日米の国力差から日米不戦、もしくは日米戦を可能な限り回避したいとの考えになる。短期決戦思想に立った場合は、開戦初頭における決戦兵力の準備が完成すればアメリカに勝てる。この国防方針は、対米戦に傾斜しやすい危険性を抱えていた。また短期決戦思想は対一国戦を基本としなければ成立しづらいという問題も抱えていた。アメリカとの戦争は、いやおうなしに米中ソ三国との戦争になる可能性が高かった。この点を指摘する参謀本部に対し、軍令部は日本の能力は対一国戦が限界であるとして、対一国戦を国防思想の主軸に置いた。 現実的に起こりうる可能性に目をつむり、軍備充実の理論的つじつま合わせとして対一国戦を強引に導入した側面が強く、自己軍備充実の都合のみを考えていたと批判されてもやむええないものだった。 ここでは、アメリカと戦って短期決戦で勝利するという、現実には起こりえない一方的な願望に基づいて、全てが作文されてしまったようです。圧倒的に経済力上位のアメリカなら、緒戦で負けても、短期で戦争を止めるはずはなく、長期戦にされて逆転されるのは必至でした。また、アメリカとの戦争は、いやおうなしに米中ソ3国との戦争になる、という陸軍参謀本部の認識は健全であり、海軍軍令部の発想の非現実性が明らかです。しかし最終的にそれに異を唱えなかった参謀本部にも責任はあるように思います。 国防方針の本質的な目的は、軍備拡張のための予算獲得の根拠とすることであったとしても、国防方針が制定されると、日本はアメリカと戦って勝てる、というタテマエが独り歩きを始める一方、経済封鎖を免れるための国際協調の本質的な必要性が忘れられてしまいました。 昭和前期の日本軍が、経済封鎖を自ら招く事態に進んでしまうという大失策を犯した根源は、ここにあったと言えるように思われます。海軍の加藤寛治ら軍令部(のち艦隊派と称される)の罪は誠に重いと思いますし、陸軍の上原勇作ら現状維持派の罪も、それに比べ決して軽いものではなかったと言わざるを得ないように思います。 より健全な思考であった、陸軍の宇垣一成、海軍の加藤友三郎陸海軍のもう一方の派閥であった近代化路線派・条約派は、現状維持派・艦隊派と違って、十分に適切な見方をしていたかといえば、必ずしもそうは言いきれないようですが、少なくとも国際協調の観点からより健全であったことは間違いないようです。近代化路線派・条約派をそれぞれ代表する、陸軍の宇垣一成と海軍の加藤友三郎の見解について、また黒野耐 『日本を滅ぼした国防方針』からの要約です。 「日米不戦」の宇垣一成宇垣は、ワシントン会議で譲歩したのは賢明であると述べて、一応は肯定的に評価。それは、宇垣が「日米不戦」の考えに立っていたから。日本が、国民生存の必需を満たすためには、英米と衝突する公算が少なく、隣接地であるため確保も容易な、満蒙方面に発展すべき。その舞台は大陸であるから、「陸主海従」の軍備を整えることが必要。このように、宇垣の思想は南守北進。その政戦略観。大海軍の建設は、英米をはじめとして、ソ連、フランス、中国、オランダ、ドイツをも敵としかねない。日本は世界を敵とする実力がない以上、これを避けてソ連・中国だけを敵とすることですむ大陸軍の建設だけにとどめるべきである。 「日米戦一時回避」の加藤友三郎加藤の思想。将来日本が戦争する可能性があるのはアメリカのみ。仮にアメリカと拮抗できる軍備を建設できたとしても、戦争に必要な資金はアメリカ以外からは調達できず、対米戦争は不可能。出来得るだけ日米戦争は避け、相当の時期を待つより外に仕方なし。外交手段に依り戦争を避くることが目下の時世において国防の本義なり。加藤は主力艦による決戦を放棄せず、1割の不足を補助艦などによって補う政策。艦隊決戦を追及する対米作戦構想と所要兵力に関しては、艦隊派と大きな違いは見られない。 二人とも、本質的には対米協調論者であり、日米決戦などとんでもないと考えていたと思いますが、結局は、軍備予算の確保に絡み、陸軍・海軍それぞれの立場での発言に終始していたために、すっきりと国際協調方針を打ち出すことができず、その点で限界があった、と言わざるを得ないように思います。 こうした現実的で合理的な考え方が当時の陸・海軍の明らかな多数派とはなれず、本質はリストラ反対・組織防衛第一の利己主義で、表面上は非現実的な観念論の現状維持派・艦隊派の抵抗に勝てなかったところに、大きな不幸の根源があった、と言わざるを得ないように思います。 水野広徳の国防方針批判 − 対米非戦論第一次世界大戦の教訓を最も適切に学んでいた日本軍人として、前のページで取り上げた、海軍大佐・水野広徳ですが、その対米非戦論の内容を確認しておきたいと思います。以下は、1923(大正12)年の『中央公論』6月号に掲載された、水野広徳 「新国防方針の解剖」(水野広徳 『反骨の軍人・水野広徳』 所収)という論文からの要約(現代表記化しています)です。 同年早春の新聞紙上で、「愈々確定せる新国防方針」として掲載された記事に示されたものに対する批判として執筆されたものです。 仮想敵国が米国であること将来我が国と戦争を開始するの機会最も多きものは米国である。従って我が国防方針の仮想敵国は自ずから米国でなければならぬ。 支那もしくは露国を仮想敵として現在の軍備を張ることは、いわゆる鶏を割くに牛刀を用いるもの。英国は欧州大戦の創痍なお深く、日本との開戦の機会を存するものは独り米国あるのみ。 日米戦争で、日本に同盟支援してくれる国世界の現勢より推断せば、日米戦争の場合、日本に同盟する国は一国も無いであろう〔=著者は、英国ならびにその植民国および支那はせいぜい親米中立と想定〕。日本は独力米国と戦うの覚悟が無ければならぬ。 日米戦争は、短期戦となるか長期戦となるか日米戦争が必ず持久戦に陥るべきは、容易に判断することが出来る。こちらの註文通りには向こうで卸さない。3年続くか5年続くかは知らず、経済力の持久戦に耐えうる自信と成算ありたる上、初めて剣を抜くべき。日米戦争の能否を決定するものは兵力の問題にあらずして経済力の問題。 日米戦争の場合、我が国の貿易は、半減よりもはるかに減少する。敵国のあらゆる戦闘力と戦闘資源とを撲滅破壊するのが、現代の戦争の根本方略。我が国のごとく、外国の物資によって生活し、外国の資材によって戦争せんとする国の有する最大弱点。 隣邦からの必要物資の確保について「帝国が封鎖を受けたる場合には食糧および作戦資材を隣邦に求める必要がある」と言える新国防方針の大本には、全然同感。いかなる手段と方策によるべきかが議論の問題。たとえ戦時といえども、武力をもって中立国の資材を強奪することは、世界をこぞって敵とする。 支那としては誠に近所迷惑の至り。日本の軍閥者流は、ベルギーの中立を蹂躙して、世界の反感と憎悪とを買いたるドイツの覆轍を、今なおまっすぐに追いつつあるもの。日本の危険これより大なるはない。 孤立は最下策一方においては富力我に十倍する米国を仮想敵とし、他方においては西隣支那を脅威し、北隣露国を憎疾し、自ら四方を敵として国防の要を叫んでいる。ドイツは世界を敵としたと称えらるるも、なお幾多の同盟国を持っていた。遠攻近争に至っては〔外交の〕下の下なるものである。我が国にして遠く米国に備えんと欲せば、近く露支と結ぶことが、国防の大本でなければならぬ。 まず経済力の充実を大和魂の抜刀隊が機関銃に敵せぬことは、旅順の白襷隊がこれを明証。ドイツ魂の剛勇も結局連合国の物力に敗れたることは、欧州大戦がこれを明証。現代の軍備は工業力に基礎を置かねばならぬ。現代の国防は経済力に基礎を置かねばならぬ。空言の国防を叫ぶ代わりに、ます経済力の充実を図ることが必要である。 東京空襲がありうる、陸軍大縮小で航空戦力の充実を我が国軍なかんずく陸軍の兵器が、欧米諸国に対して著しく遜色あるは明らかなる事実。毒ガスも出来なければ、タンクも作れない。機関銃の如きすら木銃をもって練兵をしていると聞きては、笑い話。これ我が軍当局者が、徒に外形的の兵数の増加にのみ腐心没頭して、実質改善をおろそかにしたる罪。 欧米諸国に比してその進歩の最も後れたるものは航空機。日本の如く敵の空中攻撃に対して幾多の弱点を有せる国にあっては、空中防禦の充実は海軍よりも、陸軍よりも、一層喫緊の急務。軍艦の建造を延期してなりと、既設師団を減少してなりと、まず空中軍の充実を図るべき。航空母艦、航空機、投下爆弾の進歩したる今日、海上より百台の飛行機を東京の上空に飛ばすことは、さほどの難事ではない。百台の飛行機は、一夜にして東京全市を灰燼に帰せしむることも出来るであろう。 日米戦争仮想の下、我が海軍はもはやほとんど縮小の余地がない。我が陸軍は対米作戦において、現在の如き大兵力の必要を認めない。経済力豊かならざる我が国としては、もっとも経済的にしてしかももっとも有効なる国防策を講ぜねばならぬ。不必要に膨大なる陸軍の大縮小を断行し、もって必要にして有効なる航空軍の充実を図るべき。 海軍軍人であっただけに、米国を仮想敵国とすること自体には異を唱えてはいません。しかし、実際に日米戦争になれば、必ず長期戦になるので、「日米戦争の能否を決定するのは経済力の問題」となる、という主張です。また、孤立は「最下策」であるとして、国際協調による貿易関係維持の重要性を指摘しています。 すなわち、現状の圧倒的な経済力格差では、日本は日米戦争をすれば必ず負けるのが明らかであるから、日米戦争は絶対回避しなければならない、という主張です。必ず敗れるとはっきり書いていないのは、雑誌の発禁を避けるため、抑えた表現にしたのであろう、と推測されます。 日米の経済力格差も、日本の貿易依存度も、兵備の状況も、その他の国との外交経済関係もすべて押さえた上での、きわめて現実的で妥当な主張であった、と言えるように思います。実際に、昭和前期の太平洋戦争は、東京空襲まで含めて、水野広徳が予言し懸念した通りの結果となりました。 日中戦争の泥沼化も予測した水野広徳水野広徳が、「日米戦争なら東京大空襲で日本は敗戦」を予測したことは、上述の通りで、そこそこに知られていますが、「日中戦争なら北京・南京を占領しても中国の抗戦は継続して泥沼化」、と予測していたことは、あまり知られていないように思います。 以下は、日本対米支連合の間の戦争を予測した、水野広徳 『打開か破滅か 興亡の此一戦』(『水野広徳著作集』 第3巻 所収)からの引用です。 日中戦争では、中国政府は、内地に退いて抵抗を継続〔開戦から1年を過ぎ〕 我が軍は、相当大なる人命を犠牲に供したる後、フィリピンを占領して、シナ海の海上権を握り、支那においては北平〔=北京〕および南京の両要地を占領したるも、支那政府は遠く内地に避退してなお抵抗を継続している。 第一次世界大戦で、フランス政府は、開戦時にドイツ軍がパリに迫った時、一時的にボルドーに退避しました。ベルギーも、首都ブラッセルを占領されましたが、大戦中は一貫して抗戦を継続しました。これらの経験からすれば、さらに国土の広大な中国であれば、内地(=中国の奥地)に退避して抗戦継続、と見る方がむしろ常識的と言えるかもしれません。 水野広徳がこれを書いたのは、満州事変の翌年の1932(昭和7)年でした。5年後の支那事変では、「北京・南京を占領しても抵抗を継続」の予測が的中しました。日本陸軍は、第一次世界大戦の教訓には全く反する速戦即決論を公式見解化しただけでなく、自らそれが可能だと信じ込んでしまったように思われます。大失策となったことは当然であった、と言わざるを得ないように思います。 永田鉄山にも、国際協調の必要性の議論が抜けていた最後に、永田鉄山の発言も確認しておきたいと思います。前々ページの「日本が第一次世界大戦から学ばなかったこと A 兵員数より最新兵器」で、永田鉄山『国家総動員』の内容を確認しました。 その中で、「永田鉄山といえども、軍の体制をさらに合理化してでも経済成長に向ける予算を増加すべきである、というところまでは踏み込んでいない点は、残念なところ」と申し上げましたが、本書での永田鉄山の議論に、もう一つ抜けていたのが、総力戦における経済封鎖の影響力の大きさと、それを避けるための国際協調の必要性の論点であったと思います。 目的に対して最適な手段の連鎖を示しますと、「総力戦で勝てる」→ 「日本の工業力・経済力を積極的に拡大する」 → 「当面の国力の不足は、経済先進国との協調関係の維持で補う」ということであり、永田鉄山であれば、経済先進国との協調関係の重要性には十分認識していたのではないか、と思います。しかし、やはり、国際協調に関する発言は含まれていませんでした。立場上、陸軍の公式見解からあまり足を踏み外せなかったのでしょうか。 陸海軍のリストラ回避の利己主義が、日本の針路を歪めた大正軍縮期の日本は、外交においては、間違いなく国際協調路線にありました。しかし、第一次世界大戦の教訓を適切に学び、経済封鎖などという事態を招かぬよう、自国の一方的な利益主張は控えて、先進工業国との協調関係を重視する外交方針を、陸海軍とも合意して国策として確立できていたのか、と言えば、そうではなかったように思われます。 軍部の全体を含めた合意とはなっていなかったがゆえに、昭和に入ると、1930(昭和5)年にロンドン軍縮会議後の「統帥権干犯」問題が発生し、翌1931(昭和6)年には、満州事変を惹き起こして、その後は国際連盟も脱退して孤立化する道を進んでいきました。 とりわけ、当時の日本の陸海軍が、第一次世界大戦の教訓を的確に学んでいなかった結果が、日本を、国際的な孤立をいとわぬ武断強硬策の方向性に進ませてしまった、と言えるように思います。大東亜・太平洋戦争期には、日本を経済的に有効に支援してくれる国は一国もなくなり、経済封鎖されてしまいました。 陸海軍の組織の中で、リストラを回避して自己の雇用や昇進の機会を維持しようとする利己的な思考が力を得た結果、軍の人員体制の縮小回避を無理やり正当化する議論、すなわち「速戦即決」論という、第一次世界大戦の教訓に全く反する非現実的な希望的観測論が唱えられ、陸海軍の中で力を得てしまいました。さらに、当時の日本の国家機構の中では陸海軍がきわめて強力な力を持っていた組織であったため、その利己主義が国家の進路までも歪める結果を生み出した、と言わざるを得ないように思います。誠に残念なことであったと思います。 大正期の日本は、陸海軍のメンツ意識・利己主義によって、
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